LZ127profile

コラム:世界周航時の乗組員

LZ127_crew

ハンス・フォン・シラー船長の「ツェッペリン:20世紀の出発」は、本文も鮮明で珍しい写真も貴重であるが、それに加えて重要なデータが付録として掲載されている。

例えば、1838年にいま、インゼルホテルになっているコンスタンツの館で生まれてから、1917年にベルリンで亡くなって、シュトットガルトに葬られるまでの伯爵の一生を40項目以上列記したデータや、数十項目にわたる飛行船の技術開発・建造史、30ページ以上におよぶツェッペリン飛行船の諸元・運航記録、ツェッペリン飛行船格納庫と発着設備、航行毎の乗組員一覧表、DELAGおよびDZRの飛行船運航実績などが掲載されているのである。

もちろん、そのあとは本文の詳細な注釈と、名称・件名索引が続く。

さきに、世界一周飛行のフリードリッヒスハーフェンから霞ヶ浦までの乗船客を載せたので、ここでは霞ヶ浦からフリードリッヒスハーフェンまで乗船した乗組員一覧表を紹介する。

それによると、乗客20名と乗組員41名でフリードリッヒスハーフェンを出航した「グラーフ・ツェッペリン」は霞ヶ浦から乗船客20名、乗務員40名となっている。
日本で少なくとも2名が下船し、先遣技師として派遣されていたカール・ボイエルレが首席機関士として乗船したことが判る。

機関士はボイエルレを含めて3名となっており、フリードリッヒスハーフェンから乗務していたウィルヘルム・ジーゲルと機関長を交替したとしている文献もあるがカール・レーシュと3人で乗務していた様である。
機関士は当直士官や航海士のように3直勤務ではなく、通常は1名である。
長期間でもあるし、前年に2回目の渡米飛行を実行しようとしてスペインまで行ってエンジン不調でフランスに不時着したこともあって3人乗務したのであろう。

それと、フリードリッヒスハーフェンを出発したときに乗務していた通信士のウォルター・ドムケが下の表に載っていない。霞ヶ浦で下船したのであろうか?

配置氏名
「グラーフ・ツェッペリン」世界周航乗組員 1929年8月25日~9月4日
指令フーゴー・エッケナー博士
当直士官エルンスト A.レーマン
H.C.フレミング
ハンス・フォン・シラー
航海士アントン・ヴィッテマン
マックス・プルス
H.ラドヴィック
昇降舵手アルバート・ザムト
H.バウアー
フリッツ・バートシャット
方向舵手ルートヴィヒ・マルクス
クルト・シェーンヘル
リヒャルト・ミュラー
特任(特命事項担当)クヌート・エッケナー
機関士ウィルヘルム・ジーゲル
カール・ボイエルレ
カール・レーシュ
操機長アウグスト・グレッチンガー
気嚢検査主任ルートヴィヒ・クノール
通信士W.シュペック
L.フロイント
操機手J.アウアー
M.クリスト
W.ディムラー
W.フィッシャー
R.ハルダー
A.ライヒトル
ヘルマン・プファッフ
O.レーシュ
R.シェドラー
E.ショイブル
J.シュライブミュラー
A.タスラー
B.ヴェーバー
A.ヴェンツラー
G.ツェッテル
電気技師フィリップ・レンツ
給仕長ハインリヒ・クービス
給仕エルンスト・フィッシュバッハ
司厨長オットー・マンツ

ハインリヒ・クービスは「LZ-10:シュヴァーベン」からツェッペリン飛行船でチーフ・スチュワードを30年近く担当しており、ちょっとお腹の出たマンツは人気者であった。
給仕のエルンストは14歳であった。

1937年5月にレークハーストで大惨事に遭遇した「LZ-129:ヒンデンブルク」の指令をしていたマックス・プルスの名も、同船に乗船していて翌日火傷で亡くなったエルンスト・レーマンの名も見える。
最初の渡米で水平尾翼が損傷したとき志願して補修班として応急処置にあたったエッケナー博士の子息クヌートは特命事項担当として乗務していた。

なお、レークハーストからレークハーストまで、いわるゆ「アメリカの」世界周航が終わったあと、エッケナー博士はグッドイヤー・ツェッペリンとの打ち合わせや、独米合弁の旅客用飛行船運航会社設立準備などのためにアメリカに残ったので、「ドイツの」世界周航の最終区間はレーマン船長が指令を務めている。

トップページに戻る