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第4章 フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵

GZ1

4 Ferdinand Graf von Zeppelin

その1


ガソリンエンジンをディーゼルエンジンと呼んで恥をさらす者がどこにいようか?

だが、今日、小型飛行船が浮かんでいると誰でも「すごい。ツェッペリンだ。」と言う。

ツェッペリンの支持者は、それを侮辱ではなく栄誉なことと捉えるべきである。今日、ツェッペリンが飛行船の同義語となっているのは30年間もの長い間、その時代の人を魅了してきた大型硬式飛行船の功績と並んで、ツェッペリン伯爵のアイデアを実現させるための伯爵の傷だらけの闘争に由来する。

ツェッペリン飛行船製造の手強い競争相手であった技師長ニコラウス・バーゼナッハは1909年に書いている。

「ツェッペリン伯爵は尊敬に値する人物で、勇気のある、ねばり強い献身的な組織人であり発明家で、あらゆる障害や初期の失敗にもかかわらず、専門家や、彼のアイデアが実現不能であると信じる学者達の否定的な評価に屈することなく、数十年にわたる張り詰めた仕事と多額の財政的な犠牲を払ったのち、1907年についに技術的に高度な飛行船を完璧に創りあげることに成功した。その飛行船の飛行は、洗練された世界を大いに驚かせた。」と。

50人もの伝記作家が、フェルディナンド・ツェッペリン伯爵の姿を描き出すことを試みた。

ここで、彼の生涯の重要事項をとりあげて、そのアイデア実現までの道程の概容のみを示そうと思う。

フェルディナンド・ツェッペリン伯爵は1838年7月8日にコンスタンツで生まれた。彼の祖父フェルディナンド・ルードヴィッヒは、ずっと古くからの多岐にわたるメクレンブルクのツェッペリンの家系の出である。

1787年、16歳でヴュルテンベルクに仕え、就任したばかりのヴュルテンベルク王から伯爵の爵位を授けられパリ領事館の公使に任じられ、のちに大臣を務めた。

1807年に生まれたその子息、フリードリッヒ・ジェロームは、しばらくホーエンツォルレン候の枢密顧問官を務め、侍従長になった。彼はジュネーブからコンスタンツに逃れてきた工場主の娘、アメリー・マカイア・ドグアーと結婚した。彼はギースベルクの領地を管理した。

そこで子息フェルナンドは成長した。彼は両親と家庭教師から素晴らしい教育を受け、1852年にはシュトットガルトの実業中等学校に行き、1855年からルードヴィッヒスブルクの幼年学校に入学し、1858/1859年にはチュービンゲンで講義を受講し、ウルムの工兵隊に入隊した。

彼は1865年に志願して数ヶ月、合衆国の南北戦争を観戦し、そこで偵察員としてミシシッピーの源流に単独偵察行に出た。

その後、1866年と1870/71年に戦役に従軍し、勇敢な行動で名を挙げた。それから、幾つか軍務で職責を果たし、ウルムの騎兵連隊で指揮を執った。

1869年にバルト海地方の貴族であるイザベラ・フォン・ヴィルフと結婚し、大尉となり、1879年に一人娘となるヘラが生まれた。

彼はベルリンに滞在した。1885年から1887年までヴュルテンベルクの軍事全権委任公使として派遣され、1899年まで連邦参議院でヴュルテンベルクの全権委任公使を務めた。

ヴュルテンブルク国王の随行武官に任じられ、現職に復帰しようとした。まもなく、彼は師団長になる見通しがないことを知らされた。プロイセン人に反抗的なシュヴァーベン人と見なされ、戦略についてあまりに近代的な考えを持っていたために上司から疎まれたのである。

52歳のときに失望して辞職した。

それから、それまでに少なくとも16年間温め続けてきた構想と計画に没頭することが出来るようになった。

彼が体験し、あるいは1870/71年に、包囲されたパリから飛ばした郵便を載せた気球の飛翔を伝え聞いたことと、1874年のはじめに、郵政長官ハインリヒ・フォン・シュテファン博士がベルリンで行った、国際郵便と飛行船に関する演説を聴いたことによって、彼は本格的に操縦可能な飛行船の開発に取り組むようになった。

最初のスケッチは1874年に描かれ(その中には、交通運輸に有効な飛行船がそれまでのものより大きくなければならないという明確な認識と、動的浮力の構想が含まれていた)、1875年、1877年に描かれたものも残されている。

「ラ・フランス」の成功のあと、1887年に国王に建白書を上程し、その中で軍事飛行における有効性も強調している。

1888年に、彼はプロシア陸軍の専門知識のある将校R.チューディにも相談したが、彼はそのアイデアを冷淡に拒絶した。第一の課題は、軽量の原動機が開発されることであった。

フォン・シュリーフェン参謀総長の書状による紹介でチューディとの会談が実現したが、チューディは空気抵抗を、ツェッペリンがそのプロジェクトに関して想定していたよりも大きいと考えていたのである。

1892年に、伯爵はその飛行船構想の詳細展開を始めた。

シュトットガルトの事務所では、ダイムラーから来たTh.グロース技師が働いたが、しばらくして彼のもとから去った。

リーディンガー気球製作所から来たTh.コーベル技師がその有能な才能を発揮した。2年にわたる設計作業の結果、プロジェクトは姿を現した。その作業には、物理的にも技術的にも何の裏付けもなかった。

1893年に伯爵は参謀総長に陳情書を提出した。しかし、それは拒絶された。

ミカエリス大尉とベルリンのミュラー・ブレスラウ教授の考えに基づき(第一に強度不足で、速度が不充分であると断定され)、1894年7月に委員会はその構想を却下する裁定を下したのである。

ツェッペリン伯爵は非常にねばり強く反論した。しかし、再開された委員会の会合も、皇帝陛下への陳情書も殆ど功を奏することはなかった。

その間、伯爵は原動機をめぐりダイムラーと交渉に入っており、アルミニューム工場主のベルクと初めてコンタクトをとった。コーベル技師は彼のもとを去って行った。

1895年8月31日に伯爵は風洞の特許を取得した。

リング状の骨組みと縦通材に支えられ、幾つも相互に連結された剛性の航空機とその中にあるガス嚢が原動機と荷重を積載するゴンドラを支持する方式である。

1896年1月7日に、伯爵はVDIに申請し、すぐに許可が下りた。

4週間後の1896年2月6日に、435名のVDI構成員と有力な政治家とヴルテンブルク王を前にして、伯爵は「操縦可能な飛行船構想」の講演を行った。

その申請に対してVDIは6月7日に、委員会にその計画が妥当であるか審査を行うことを諮問した。

1896年12月30日に、その委員会の審査結果は良好と認められ、VDIはその計画を支持することを公表した。

建造に際して、さらにカール・ベルクおよびシュヴァルツ未亡人との契約上の合意に基づき、ツェッペリン伯爵は1898年1月に飛行船運航助成会社を資本金80万マルクで設立した。

65名の署名者の中には、ダイムラー、マックス・アイト、グミンダー、リンデ、フォイトなど、南ドイツの経済界では名の知れた多くの人物が居たにもかかわらず、資本金のうち43万1千マルクは伯爵自身が出資しなければならなかった。

1898年にはまだ、最初のリングがリューデンシャイデのベルクのもとで組み立てられていた。

1899年の春、フリードリッヒスハーフェン近郊のマンツェルで水上格納庫の建設が始まった。

ルードヴィヒ・デューアという若い技術者が伯爵の設計者になり、後にLZ1と命名される飛行船の組立を担当した。

1900年7月2日に、水上格納庫から引き出されて、バージからの飛翔は成功し、18分空中に浮かんでいた。

飛行船が空中に浮かび、その速度がおよそ時速30kmに到達したことは多くの人々を感激させたが、中には操縦可能性を疑問視する批判的な声もあった。

フレンスブルク出身の経済学者でヨットマンで、フランクフルト紙のフリードリッヒスハーフェン通信員であったフーゴー・エッケナー博士は非常に懐疑的な論調でそれを報じた。

その2

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