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硬式飛行船誕生の地:フリードリッヒスハーフェン

噴水

南独に偉人たちの足跡を訪ねて

ツェッペリン飛行船の故郷、フリードリッヒスハーフェンはドイツ南部バーデン・ヴュルテンブルク州の地方都市である。ヴュルテンブルクというよりシュヴァーベンと言った方が馴染みがよい。フリードリッヒスハーフェンの前に広がる湖は、ドイツではボーデン湖と呼ばれるが英語圏ではコンスタンス湖という名で知られている

ツェッペリン伯爵はスイスと隣接するコンスタンツで生まれ、そこで青年期を過ごしている。1887年にヴュルテンブルクでカール帝に操縦可能な飛行船の計画書を提出し、1894年に招集された委員会でその構造基本設計図を提示したが理解が得られなかった。やっと1896年にドイツ技術者協会(Verein Deutscher Ingenieure)に呼びかけてドイツ産業の代表数名による80万マルクの資金を得て「飛行船旅行助成会社(Gesellscahft zur Förderung der Luftschiffahrt)」を設立することが出来た。

この資金でフリードリッヒスハーフェンのはずれマンツェルに工場をつくり、その沖のボーデン湖に水上格納庫を造って最初の硬式飛行船「LZ1」を建造した。長さ128m、直径11.7mでガス容量は11300立方mであった。この飛行船は1900年7月2日の夕刻8時に伯爵を含む5人の人間と350kgのバラストを載せて浮揚し、18分滞空した。

「LZ1」は改修されて10月17日に2度目の試験飛行で1時間20分飛翔している。後に伯爵の後継者となるフーゴー・エッケナー博士はフランクフルター・ツァイトゥンク紙から依頼されてこの実験のレポートを書き送っている。「LZ1」は10月21日に最後の飛行を実施したあと解体され、会社も清算したあと解散された。

その後「望まなければならぬ。信じなければならぬ。そうすれば実現できる。」をモットーとする伯爵の硬式飛行船開発がフリードリッヒスハーフェンを舞台に展開された。

私がこの地を訪れたのは「LZ1」が浮揚して107年後、2007年春のことである。クローテンにあるチューリッヒ国際空港に降りた翌日、陸路クロイツリンゲンからコンスタンツに入り、ボーデン湖を渡ってメーアスブルクで上陸した。メーアスブルクにはアルテスシュロスのほか、ウーバン氏のコレクションを展示しているツェッペリン博物館、ノイエスシュロスのドルニエ博物館などがある葡萄畑に囲まれた人口5千の坂の街である。

ここから湖畔を10kmも走るとフリードリッヒスハーフェンのランドマークであるシュロスキルヒェの双塔が正面に見えてくる。

フリードリッヒスハーフェンの見どころをウェブで調べてみると、ロールシャッハ砂岩で出来たバロック様式のシュロスキルヒェ、突堤にある高さ22mの展望台、それに奇跡的に爆撃を免れフリードリッヒ通りに建っているツェッペリン噴水が載っているが、何と言っても1930年代に建てられ、戦後再建されたツェッペリン博物館が第一である。

市駅の前に立つゼーホテルにチェックインしたあと、赤と白のマロニエが咲き誇っている湖岸の公園を抜けてツェッペリン博物館に向かった。ツェッペリン噴水の脇を通って数百m歩き船着き場に沿ってオープンカフェテラスや土産物屋の軒先を行くと白亜の博物館が建っていた。

フレードリッヒスハーフェンには鉄道の駅が2つある。宿舎のそばの市駅とツェッペリン博物館前の港駅である。フリードリッヒスハーフェンから対岸スイスのロマンスホルンへ1時間ごとに連絡船が出ており、東はリンダウ経由オーストリアのブレゲンツ、西はメーアスブルク、ユーバーリンゲン、コンスタンツなどと連絡しているのでフリードリッヒスハーフェン市駅から引込線が敷かれており、ツェッペリン博物館はその港駅正面に建っている。

ツェッペリン博物館

博物館は3階建て一部6層の塔屋のある堂々とした白亜の建物である。1階2階部分がツェッペリンの硬式飛行船博物館で、最上層の3階は中世から現代に至るまでのボーデン湖一帯の芸術作品を展示した美術館になっている。

1階のエントランスの北は港駅に、南は港に開かれており西側に広いロッカールームや売店があり、入り口ゲートの上には霞ヶ浦やリオデジャネイロなど「グラーフ・ツェッペリン」が寄港した地名が三十数ヶ所アルファベット順に掲げられている。

早速入場する。入ったところは広い空間で、中央に置かれた黒塗りのリムジンが小さく見える。前にまわってみるとマイバッハ・ツェッペリンであった。ウィルヘルム・マイバッハはダイムラー社の主任技師としてメルツェデス第1号を設計したのち、1909年にダイムラー社を辞め、息子のカールとともにツェッペリン伯爵のためにマイバッハ・モーター社を設立し、飛行船のエンジンを供給した。ここに設置されているリムジンはグローサー・メルツェデスに匹敵する超高級車である。マイバッハが居なければ後のダイムラー・ベンツはなかったと言われるほどの人物である。

この広間の壁には「ヒンデンブルク」の索を引いて着陸を支援する人達の大きな写真が壁に貼られていた。1899年に伯爵がマンツェルに建設した水上格納庫の模型や、当時使われていた木製梯子の実機大模型も置かれている。そのほかケースに入った水上格納庫や、フランクフルトに建設された格納庫の縮尺模型、それに飛行船船首先端部材や浮揚ガス安全弁などが展示されていた。ここには「LZ129:ヒンデンブルク」の実寸大部分模型への昇降階段があった。この広い空間は「ヒンデンブルク」の主船体の下だったのである。

階段を昇ると「ヒンデンブルク」のBデッキである。173リングから188リングまでの右舷側が実船と同じジュラルミン枠にキャンバスを張った構造で作られている。実船のBデッキにはギャレー、士官食堂、部員食堂、シャワー室、トイレット、バー、喫煙室などがあった。ここにはその片舷が再現されていた。

そこから更に階段を昇るとAデッキである。中心線側にツインキャビンが2列に作られ、その外側は広いラウンジ、さらにその外はプロムナードになり、広い展望窓から外が展望できる。壁紙もテーブルや椅子も実物に似せて作られていた。乗客用キャビンも覗いてみた。

その隣の展示室を見ると「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」のエンジンゴンドラの本体、「グラーフ・ツェッペリン」や「ヒンデンブルク」のガーダー接合ジョイントなど飛行船の各部品が展示されていた。要所々々には学芸員のような掛員が待機しており、自分から積極的に説明するわけではないが、質問すると待っていましたと言わんばかりに展示品や関連事項を詳しく説明してくれる。どこの展示場でも、その説明に自信と誇りを持って展示場に待機していることがよく判った。

2階には港駅の方に突きだした展示部が2箇所あり、その一部だけ撮影禁止の標識が掲げてあった。

このフロアには初期の飛行船から「ヒンデンブルク」の惨事まで、動画や静止画で画像表示しているコーナーがあり、いつも殆ど満席の状態であった。3階にはこの地方の芸術協会の美術品展示会場になっているそうであるが、飛行船のことで一杯でとてもそこまで回れなかった。

階下に降りるとマイバッハモーターの後身であるMTUのディーゼルエンジンやツェッペリン社製建設機械などが展示されていたが、壁にはツェッペリン伯爵、アルフレッド・コルスマン、フーゴー・エッケナー、ルードヴィッヒ・デューア、カール・マイバッハ、クラウディウス・ドルニエなどツェッペリン・コンツェルンに貢献した人々の彫像が掲げられ、それぞれに解説が付けられていた。

ゆっくり見るといくら時間があっても足りそうにない。閉館時間になったのでロッカーに預けていたものを取り出して退館した。

フリードリッヒスハーフェンの街とメーアスブルク

訪れたのは4月から5月に変わる頃であったが、湖畔の街は初夏のようであった。日本の初夏のように湿度は高くなく、どの街にもマロニエが咲いていて、一年中で最もよい季節ではないかと思った。

宿舎のホテルは駅前広場に面しており、芝生に立つ大きなマロニエの木には赤と白の花が咲き誇っていた。その前のフリードリッヒ通りを横切ると湖畔公園で眼の下にはヨットハーバーがある。通りを東に百mほど行くとドイツ鉄道のガードがあり、街の北側と連絡している。その丁字路にツェッペリン噴水があった。戦前、マルクト広場のラートハウスの前に立っていたもので、ガイドブックによればフリードリッヒスハーフェン・マンツェル家出身の彫刻家トニー・シュナイダー・マンツェル教授の作品であるという。小さな坊やが両手で飛行船を抱えている姿が微笑ましい。この噴水は1944年の爆撃にも殆ど無傷で残ったという。

この辺りから階段を湖畔公園に下りると爽やかな緑地公園が続いている。湖畔にはヨットハーバーなどのほか、突堤の先に建てられた高さ22mの展望台やドイツ・スイスの湖によく見られる湖面から高く吹き上げる噴水などがある。

湖畔公園の東端には広場があり、カフェテラスでは大人も子供もソフトクリームを食べている。本当にアイスクリームが好きな人達である。その東の通りにはセントニコラウス教会の塔が聳えている。ここが街の中心でラートハウスもある。戦前にはツェッペリン噴水はこの辺りに設置されていたのかも知れない。ツェッペリン博物館や港駅はすぐ傍である。

ツェッペリン博物館や連絡船乗り場を越えて先に行くと川沿いにキャンプサイトもあり、鉄道は空港の滑走路に並行してウルムに行く本線から分かれてリンダウに向かって伸びている。自然に恵まれた良い街である。

飛行船建造が盛んな時期にはツェッペリン飛行船の従業員村が建設された。第一次大戦当時8千人に達したと言われる従業員のうち、5千人がこのツェッペリン村の福祉施設を利用していたと言われている。大ホール、食堂、文化施設から工業製品、農作物、酪農場、スーパーマーケット、煉瓦製造、屠殺場まであったという。今も街の北、飛行場の西にツェッペリンドルフという地名が残っており、ヒンデンブルク通り、ルードヴィッヒ・デューア通りなどツェッペリンに縁のある名前が通りに付けられている。

その南西に世界的に有名なトランスミッションとステアリングのZF社、マイバッハ・モーターの後身であるMTUの工場があり、その西隣に市営中央墓地がある。両社の工場敷地に匹敵するほどの広い墓地であるが、さらに西に拡張される様子であった。

ここに、エッケナー博士、カール・マイバッハ、ルードウィッヒ・デューア、クラウディウス・ドルニエなどの墓碑と、1937年にレークハーストで爆発炎上した「ヒンデンブルク」犠牲者の慰霊碑がある。どのお墓も植え込みに草花がきれいに咲いていた。

フリードリッヒスハーフェンからボーデン湖沿いにタクシーで西に走るとメーアスブルクの街に着く。ここには旧領主の館が2つある。アルテスシュロスは7世紀に建てられたもので砦の中を見学することが出来る。この旧城の前にウーバン氏のコレクションを展示したツェッペリン博物館があり、新城ノイエスシュロスの2階には飛行艇の模型や写真を展示したドルニエ博物館がある。

フリードリッヒスハーフェンの新しい施設としてはツェッペリン飛行船格納庫に隣接したメッセ・フリードリッヒスハーフェンがある。10棟の大きなホールの展示面積は7万平方mで、450人収容できる会議場もある。我々が訪ねたときは自動車チューニングの展示会が開かれていた。

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