LZ127Profile

エルンスト・レーマン

Lehmann

エルンスト・レーマンは関根氏の著書によると1896年、ルードヴィッヒスハーフェンで生まれたとあるが、ルードヴィッヒスハーフェンという地名は2箇所ある。一つはマンハイムの近く、ライン川沿いにあり、これはフィリップスのポケット地図帳にも載っているので大きな街らしい。もう一つはボーデン湖の一部であるユーバーリンガーゼーの湾奥にある小さな町である。どちらか判らない。

彼はベルリンで造船科を卒業した後、エッケナーの指導で飛行船船長の資格を取得し、DELAGの飛行船「LZ13:ハンザ」の船長になった。エッケナーの信頼も厚く、1929年に「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」が世界周航を行った際、レークハーストで下船したエッケナー博士に代わってフリードリッヒスハーフェンまでの帰途を指揮している。

1936年3月26日、完成したばかりの「LZ129:ヒンデンブルク」が「グラーフ・ツェッペリン」とともにナチスの国民投票のプロパガンダ飛行にレーヴェンタール発着場を飛び立つ際、すでに上空に「グラーフ・ツェッペリン」が来ていたので強い突風のなかを、エッケナー博士の勧告に従わず離陸しようとしたレーマン船長は「ヒンデンブルク」の垂直尾翼下端をぶっつけて損傷してしまった。

エッケナー博士は立会人や従業員の前で「レーマン君、あの風の中で飛行船をどう操作しようとしたのか?君は世界中でも馬鹿馬鹿しいこの飛行を延期する最良の言い訳が出来たはずだ。君が飛行船を危険に曝したのはゲッベルスの不機嫌を避けるためだけではないのか?」と激しく責めた。

宣伝相のゲッベルスがこの話を聞いたとき、記者会見を開いて次のような怒りの発表を行っている。「エッケナー博士は自分で自身を国家から遠ざけてしまった。もはや将来、彼の名が新聞に載ることも彼の写真が使われることもないであろう。」

こうしてナチ政府はエッケナー博士をツェッペリン社の会長として追い出し、大西洋横断飛行を実施するDZRの実権をナチの意向をより受けやすいレーマン船長に握らせたのである。

1937年5月6日にレークハーストで起きた「ヒンデンブルク」の惨事の際、指令はマックス・プルス船長であったがレーマン社長も乗船しており、プルス船長とレーマン社長が最後に操縦室の窓から飛び降りたが、レーマン社長は重度の火傷で翌日病院で亡くなった。

後任として社長になったのは主任設計者であったルードヴィッヒ・デューア博士であった。

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