LZ127Profile

LZ129:ヒンデンブルク

Waibel_44
(1936年3月、フリードリッヒスハーフェンの建造格納庫から出庫するLZ129「ヒンデンブルク」。同書P44)

Barbara Waibel著 LZ 129 HINDENBURG

Ⅲ.「ヒンデンブルク」の概要

1936年3月4日、LZ129「ヒンデンブルク」が初の試験飛行のためにフリードリッヒスハーフェンの工場格納庫から浮揚したとき、大西洋を横断する飛行船空輸を目指す不屈の闘士フーゴー・エッケナーの夢は達成された。南米への飛行船の営業運航の実現および北米ルート定期運航のために追求された快適さと大きさを備えた飛行船が遂に完成したのである。

新造飛行船の寸法は非常に大きなものであった。「ヒンデンブルク」は長さ245メートル、最大直径は41.2メートルで、のちに建造された姉妹船LZ130とともに現在に至るまで世界中で最大の航空機である。新飛行船の最大ガス容量20万立方メートルは、その前に建造されたLZ127「グラーフ・ツェッペリン」のほぼ倍の容量である。LZ129は、乗客・郵便物・貨物を搭載する輸送用飛行船の原型であった。それは主に北大西洋交通運輸を意図して建造され、その2日ないし3日の旅行のために50人以上の乗客と52名の乗務員用に寝台が用意されていた。のちに寝台の数はさらに増設され、72人用になった。昼間航行では100名の客を乗船させることが出来た。郵便物、貨物および手荷物は総重量で11トンまで積載することが出来た。飛行船の自重は無積載で118トンであった。全備重量、すなわち積荷を満載した飛行船の重量はおよそ220トンであったが、離着陸する場所によって多少の変動があった。原動機にはダイムラー・ベンツのLOF6型ディーゼルエンジン4基が装備され、その飛行船の最高速度は時速140キロメートルを達成することが出来た。

乗客区画と操縦ゴンドラを分離したことは斬新な試みであった。後者(操縦ゴンドラ)がこれまで同様に飛行船下部の船首部分に位置するのに対し、乗船客の居住区はイギリスの輸送用飛行船であるR100とR101を範例として飛行船の胴体内部に移された。このことによって従来の旅客用飛行船「グラーフ・ツェッペリン」より乗客用区画を根本的に大規模に、さらに快適にすることが出来た。「ヒンデンブルク」の乗船客用区画領域は2層にわたって、およそ400平方メートルに拡張された。重量節減は、内部方式にしたためにすべて不要になった。重量節減のために、あらゆる内装は必要最小限に抑えられた。このように「ヒンデンブルク」にはバウハウス様式の近代的設計が取り入れられた。上部のAデッキには25室のツインルームが配置され、ラウンジと読み書き室およびダイニングルームが設けられた。Bデッキにはバーと喫煙室が設置された。飛行船の両側に設けられたプロムナード(遊歩通路)の大きな窓からは、下界を過ぎゆく風景や海原の壮大な展望が可能であった。幾人かの調理師とパティシエが電気式厨房設備で乗客の健康のために腕を振るった。それは本当の意味で空飛ぶホテルであった。

乗船客デッキの通路には2つのいわゆるタラップがあり、下のデッキに行く折り畳み式ステップとして用いられていた。右舷側にはトイレットの前を通り回転式ドアまで、天窓から日の当たる通路がある。そこを通るとグラスと瓶の並ぶ壁付き棚とカウンターが備え付けられ、同様に天窓から日の射す小さなバーがあった。

その先のドアは隣接する喫煙室に通じていた。そこには、ヘヴィースモーカーであるツェッペリンの乗客が切望し待ち焦がれていた喫煙室があり、それゆえ船上で最も人気のある空間の一つになっていた。周囲を取り囲んだ壁付きベンチ、8つの回転式肘掛け椅子と同様に灰皿が取り付けられ葉巻、紙巻きタバコやドリンクで語らいを楽しむための4つの小さなテーブルがあった。安全性のために壁と家具は革張りであった。その空間の色彩は青と金色になっていた。すべてのラウンジの壁に掛けられた絵画には飛行船の歴史のモチーフが描かれていた。手摺りで仕切られ、傾斜した天窓の上方には北と南の星空が描かれた2枚の天空図があった。居心地よく手摺りにもたれて眼下を過ぎゆく大地を眺めることが出来た。

この2つのスペースでは、誰も火の点いた葉巻のようなものを喫煙サロンから持ち出さないようにスチュワードが監視していた。従ってスチュワードの居るバーの開き戸からしか出入りすることは出来なかった。船上で唯一タバコ類を扱うことが出来たのは彼だけで、乗客のタバコに点火することが出来た。壁には電気式タバコ点火器も取り付けられていた。乗客は、あらゆる個人的喫煙道具を旅行のはじめに、特に指定された紙袋に包みスチュワードに手渡す必要があった。番号のついた切片と引き換えに着陸後、中身を返却して貰うのである。スチュワードは、さらにバーテンダーとして冷やしたオレンジカクテル「LZ129」のようなツェッペリンバーの創作ドリンクや、アメリカ人にはなじみの「マンハッタン」などをサービスした。

バーの左はヘッドウェイター、ハインリヒ・クービスの事務室になっていた。彼は初の飛行船スチュワードの一人で、既に戦前からDELAG飛行船で仕事をしていた。そのスペースから積卸場の向かい側にある厨房と同様、キール通路のハッチと部員食堂および士官食堂に通じていた。しかし、この領域に乗船客が立ち入ることは出来なかった。但し、左側のシャワー室とトイレットは自由に使うことが出来た。

階段がその上のAデッキに通じているが、船体の高い位置にあるため、Bデッキより広くなっていた。通路には、その飛行船命名の由来となった故パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の胸像が据えてあった。そこから右舷の大きなラウンジに行くことが出来、その先には読書兼記述室が続いており、左舷はダイニングルームになっていた。ダイニングとラウンジのあいだの2列の通路は4列に配置された寝室に通じていた。

キャビンは、通路からは引き戸で仕切られており室外からは鍵で、室内からは閂で閉じることができた。ツインキャビンは上下2段にベッドが置かれ、軽金属の梯子を用いて上がることができた。追加料金を支払うことによって、シングルキャビンとして乗船手続きをすることが出来た。その場合は、上段ベッドは上に折り畳み収納された。通路の両端では、別個の通路を確保するために向かい合った2つのキャビンを引き戸で仕切ることが出来た。4人家族の場合、このようにして小さな続き部屋として予約することが可能であった。

どのキャビンにも冷水と温水の蛇口のついたプラスチック製折り畳み洗面台、タオル掛け、鏡とコートハンガー、物置棚付きキャビネット、それに折り畳み式のテーブルと椅子が備えられていた。2、3日間の手荷物は寝台の下に入れることが出来た。ドアの横あるいは向かい側の壁面の、寝台から操作できるスイッチによって点滅可能な電灯があった。キャビンには換気口から新鮮な外気か温風を取り込むことが出来た。ドアの近くの押しボタンを押せばスチュワードを呼ぶことが出来た。一流ホテルのように乗船客が夜間、靴をドアの前に置いておくと翌朝ピカピカに磨き上げられていた。

右舷側にはラウンジと、仕切り壁を隔てて執筆兼読書室があった。その2つの区画は手摺りによって窓際のプロムナードと区切られていた。ラウンジの壁は明るいきつね色に塗装されており、快適な軽金属製肘掛け椅子と小さなテーブルが配置され、読書やカードゲームを楽しむことが出来た。さらにそこにはライプチヒのピアノメーカー、ブリュートナーが黄色の豚革で上張りした、重量わずか180キログラムの特別仕様のアルミニューム製グランドピアノが設置されていた。だが、搭載されたのは1936年5月、初の北米航行の際であった。ピアノを置く場所を確保するために4つの円卓が取り去られた。

長手方向の壁には世界地図が描かれ、偉大な発見者によって開設された重要な航路とツェッペリン飛行船の航路が描かれていた。地図には「ヒンデンブルク」のほかの部分の壁画と同様に、気球に用いられる絹布に、先端技術を駆使した沢山の型紙が用いられていた。この吹きつけによる絵画は、当時ベルリンにあったフリッツ・アウグストのブロイハウスの経営によるコンテンポラ美術専門学校の教員であったグラフィックデザイナー、オットー・アープケの作品である。さらに最先端の調査研究ののちベルリンのライマン専門学校で絹布デザインを教えていた著名な女流絹布芸術家マリア・マイもその製作に携わった。

長さ14メートルの展望プロムナードには幾つかの革張りのベンチが配置されており、そこから下界を流れ去る景観をのんびり楽しむことが出来た。およそ500メートルの高度での航行では、地表の細部をはっきりと見ることが出来た。幾つかの開放可能な窓からは、新鮮な外気を顔で感じることが来た。特に熱帯の高温域を航行する南米航路では冷たい空気がありがたかった。

4メートル×5メートルの大きさの執筆兼読書室はラウンジに隣接し、2基の2人掛け筆記卓があり、壁寄りに2つの丸い読書テーブルが備えられていた。筆記卓には、それぞれに丈夫に作られた回転椅子、仕切り壁、それに読書灯が用意されていた。読書テーブルにはラウンジと同じように肘掛け椅子も置いてあった。壁には小さな本箱と新聞ばさみ、それに船上で書いた葉書や手紙を投函する郵便ポストがあった。それらには特別に誂えた船上消印が押印され、今日では郵趣家にとって希少価値のある珍品となっている。壁画には、この場にふさわしく郵便事業促進の歴史も描かれていた。

右舷側のスペースに対して、昇降用階段の向かい側には左舷側全体を占めるダイニングルームであった。そこにも手摺りで、ほかの空間と隔てられた展望プロムナードがあった。このダイニングには6基の正方形テーブルがあり、それぞれに4客の金属メッシュの肘掛け椅子があった。そのほかに縦通壁沿いに4つの小さな長方形のテーブルが配置され、あわせて50名の乗客用の席が用意されていた。これらのテーブルは、組み合わせて使用することにより一つの長い祝宴用に使うことも出来、壁には4つの給仕用テーブルを用意することが出来た。クッション入りの革張り腰掛けと窓際のベンチは赤を基調としており、その色は明るい黄色の壁画と心地よいコントラストを生み出していた。その区画にはドイツから南米へ航行する飛行船が描かれていた。

ダイニングに隣接して流しの付いた小さな配膳室があり、キャビネットにはグラス類、ナイフ/フォーク類、磁器類、テーブルクロス、ナプキン、その他上質のテーブルセットに必要なものが全て揃っていた。クリーム色の磁器は金で縁取りされ、地球上を飛ぶ飛行船を表したDZRの商標が示されていた。グラスは、飛行船が横傾斜したときに倒れないようにそのような様式は施されていなかった。飲み物のキャビネットにはキューブアイスのための冷蔵庫も用意されていた。さらに流し台もあった。厨房から配膳室に料理を運ぶリフトも備えられていた。スチュワードと調理員の連絡のために伝声管と梯子がつながっていた。配膳室は引き戸でダイニングと仕切ることが出来、厨房への梯子の上に設けられた床の跳ね蓋は、下からの騒音や調理の匂いを遮る役割を果たしていた。

厨房では乗務員にも乗客と同様に料理が準備された。厨房は下のデッキの左舷側の士官用と乗組員(部員)用の食堂のあいだに位置し、そこには料理を準備する配膳室があった。乗客用デッキに搭乗用梯子で上る通路の脇に配膳室があり、キール通路に面して控えの間と流し付きの調理場があった。炉のまわりの床と仕切りは金属板で内張りされていた。厨房には階下のBデッキのすべての区画と同様に日光が射し込んでいた。ここでも出来るだけ騒音を少なく、匂いが外に漏れて来るのを抑えるように厨房の窓際には垂直にガラス状のプラスティックが用いられていた。

厨房の設備には4箇所のクッキングプレート付き電気炉、3口のオーブン付きロースター、引き出しと棚の付いた台所戸棚、調理台と冷蔵庫、それに2つの流しと船内電話が準備されていた。長期の航行では、ここで5人の調理師によって朝食用にブレートヒェンが焼かれ、3~4種のコース料理が用意された。

乗組員(部員)と士官食堂は、Bデッキの乗客用区画内の厨房の左右に隣接して設けられており、下部通路のドアから入ることが出来た。部員用食堂は24名用、士官食堂は12名用の座席が用意されていた。船上では3直配置で職務を分担して持ち場についているので、食事の際に席が不足することはなかった。そのほかに非番の乗組員が滞在する場所が飛行船船首下部のウィンチプラットホームにもあったと飛行船のマニュアルには記載されている。そこには4つのベンチと4卓があり、全部で10名用のスペースであった。

LZ127「グラーフ・ツェッペリン」とは対照的に、「ヒンデンブルク」の乗務員区画は乗客の居住区とは完全に隔離されていた。スチュワードと士官のみ乗客用デッキに立ち入り可能で、飛行船のヘッドウェイターの事務室、あるいは厨房から配膳室への梯子からそこに行くことが出来た。

乗組員の乗船には、操縦ゴンドラと下部垂直尾翼の外部にある梯子が使われたが、そこには補助操舵室があり、緊急の場合にはここから巨大な舵面を機械的に動かすことができた。

下部垂直尾翼と操縦ゴンドラには、それぞれ方向転換の可能な、飛行船で唯一の着陸点である発着用車輪が備え付けられた。

内部に主操舵台のある操縦ゴンドラは船首下部のキール(竜骨)構造に取り付けられていた。そうすることで、見通しの良い航行が保証された。全体で長さ9メートル、幅2メートル半のゴンドラは横壁で3つの領域に区分されていた。前部は操舵室としての機能を有し、その後に海図室を兼ねた航法室があり、最後部はいわゆる計測室になっていた。この操縦ゴンドラから飛行船を操縦、操舵することが出来た。長期間の航行では飛行船指令が2名、監視士官が4名、航海士が3名、昇降舵手3名、方向舵手3名が乗船し、3直体制で当直にあたった。この当直、非番、当直前準備の配員は全乗組員に適用された。士官、乗船技師、通信士は4時間毎の当直であったが、操舵手、ガス嚢担当、操機手は昼間は2時間毎、夜間は3時間の当直であった。

操舵室には、左舷側に飛行船を上下に操船する昇降舵輪があり、船首には左右に操船するための方向舵輪があった。それに対応して、昇降舵スタンドには高度計、バリオメーター(昇降速度計)と傾斜計が設置され、方向舵スタンドにはジャイロコンパスの表示盤と、方位を示す磁気コンパスが配備されていた。

飛行船の操縦は、特に着陸時には、飛行船が重い場合にはバラストの投棄を、軽い場合にはガスの放出が必要であった。バラストは水槽に入れられ、あるいは、飛行船の全長にわたって分散されていた布袋(いわゆるバラストホーゼ)で携行された。バラストの投棄とガスの放出は昇降舵手の任務であり、それぞれの水槽と16個のガス嚢の状態を知らせるための表示盤が2つ設置されていた。昇降舵手は、バラスト水タンクを的確に、部分的あるいは完全に空にすることが出来、また、それぞれのガス嚢の操作弁を開放することが出来た。昇降舵手は、航行中に飛行船の操舵をできるだけ抑え、定められた高度を維持し、静穏な航行を維持する責任があった。飛行船の揺れは、第一に船体構造に強い負荷が掛かり、第二に乗客にとって不快だからである。傾斜が8度を超えるとグラスや壜が倒れるので、飛行船の横傾斜は5度を超えてはならなかった。

2等操舵手は航路に関する航法の権限を持っていた。彼は、3等航海士が指示した航路を維持するか、あるいは海図上の航路に沿って操舵した。方向舵手は針路修正にあたっては可能な限り最大操舵角を5度以内に保った。それを越えると飛行船は動揺や蛇行などの大きな船体運動を始めるからであった。操縦ゴンドラと技師の居室およびエンジンゴンドラとのあいだの命令伝達はメカニカルなエンジンテレグラフを用いて行われた。そのほか、船内の何ヶ所かに電話が設けられ、操縦ゴンドラと無線室とのあいだの伝達のため気送郵便設備、さらに中心線通路に伝声管が設置された。

航海室には電波測定装置と大きな海図テーブルがあり、その下に海図類を収納する幅の広い引き出しがあった。ここでは3等航海士が海図上に航跡と風向風速/天候を記録した。航行中に出会った船舶や、その他の重要な出来事は、それぞれの航行毎に航海日誌に記録された。その航海日誌類は、こんにちフリードリッヒスハーフェンのツェッペリン飛行船製造有限会社にあり「ヒンデンブルク」の航行に関する重要かつ興味深い資料となっている。

隣接する測定室の最後部にはアルミニューム製のベンチがあり、そこから飛行船の後方を展望することが出来た。そこから上の飛行船船体にハッチを介して梯子が掛かっていた。その先はドアを経て右舷側の電信室に行き着くことができた。

無線設備には短波と長波の送信機と2台の受信機、それに方向探知機があった。気送郵便によって操縦ゴンドラとだけではなく乗船客区画にあるスチュワード室にも連絡がとれたので、重要な天候通報の受信のために無線機が必要でない場合に限り、乗船客の電報を伝達することが出来た。大西洋横断航行では4名の通信士が業務を分担した。

無線室の向かい側には郵便区画があった。航行中、書状や葉書には特別な船上消印が押された。作業机とベンチは2人分のスペースがあった。

無線室と郵便室は狭い通路の、いわゆるキール通路に隣接していたが、その通路は船首端から船尾の十字翼まで、ほぼ飛行船のキール(竜骨)に沿って通っており、乗務員用の主交通路の役割を果たしていた。このキール通路の両側に貨物や郵便物や食料品の保管場所と、燃料・潤滑油・バラスト水・清水・廃水の容器があった。船体中央部には自動車や小型飛行機のような嵩張る荷物のための大貨物室と、工具や予備品を備えた小さな船内作業所があった。2基のディーゼルエンジンが飛行船内に電力を供給する給電センターもこのスペースに設置されていた。3名の乗務電気技師が航行中、電気設備の維持管理の責任を担っていた。そこに隣接する技師室には、エンジンテレグラフ・羅針儀、高度計、傾斜計、湿度計、気温計、回転数および速度計が設置されていた。そこは機械装置の技術調整の中枢であり、乗務技師の主な居所であった。

乗務員の寝室も通路の左右にあった。船首部、中央部、船尾部の3区画に分かれていた。乗務員は、それぞれ自分の担当配置の近くで寝ていた。飛行船の船首部には指令の寝室と並んで士官および操舵手用に3室のシングルキャビンと5室のツインキャビンがあった。

第2のグループは乗船客区画の後部にあり、全部で14の寝室があった。そこにはスチュワードや調理師、それに前部両舷のエンジンゴンドラの操機手が寝泊まりしていた。発電機室と工作室のあいだに位置する船体中央部にも同様に洗面所とトイレットが士官用と部員クラスに分かれてあり、シャワー室が1室あった。

さらに飛行船の船尾部には6室のツインキャビンがあり、そこには後部両舷エンジンゴンドラの操機手たちが寝ていた。デッキと仕切りは布製で、キャビンは同様に簡素なカーテンで通路と隔てられていた。

第2の通路は、飛行船のちょうど回転中心軸にあり、全長にわたって延びていた。この、いわゆる軸通路は3本の梯子でキール通路と連絡していた。さらにそれは船首先端で下部通路と連結していた。軸通路は、いわゆるガス嚢担当にとって16個のガス嚢を通る点検用通路となった。彼らはこれらのガス嚢でガス漏れを検知し、ガス弁を正常な状態に維持するよう点検した。ガス嚢担当は外被の状態についても責任を負っていた。彼らは、場合によっては船体背面の外によじ登り、そこで命綱だけを頼りに外殻の損傷を修理しなければならなかった。飛行船の上には、登り梯子として設計されたガス排気筒を経由して登ることが出来た。

下のキール登り階段からは、飛行船の左舷、右舷外部に対称に取り付けられた4つのエンジンゴンドラに通じる脇通路が延びていた。飛行船の外被のドアは梯子に通じており、そこから操機手たちはそれぞれのエンジンゴンドラに乗り込んだ。ゴンドラの床は金属の板張りで、それ以外は飛行船船体と同様、布で上張りされていた。窓からは充分な光が射し込み、入り口は巻き上げ式シャッターで閉じることが出来た。各ゴンドラには、それぞれ連続出力850馬力のダイムラー・ベンツ社製LOF6型ディーゼルエンジンが搭載されていた。2列V型配列の水冷式鋼製16シリンダーの4サイクル予熱エンジンであった。圧縮空気によるスターターを備えており、圧搾空気により直接逆転することが出来た。各エンジンは直径6メートルの4翼プロペラを駆動した。水冷/油冷のためにゴンドラの前方には開口が設けられた。2つの可動式フィンによって風量が調節され、冷却器を循環させていた。燃料と潤滑油は船体内部のキール通路脇の側方通路の容器に貯蔵されていた。

それぞれのエンジンは操機手が常時監視していたため、数日間にわたる航行では全部で12名の操機手が乗務した。計器盤には冷却水温、潤滑油温、油圧、回転数など必要なあらゆる計器があった。緊急の場合には、彼らは航行中にエンジンの修理を行わなければならなかった。航行の都度、スタートの45分前に2名の操機手が慣らし運転を行い、出発の際は各ゴンドラで2名の操機手が機側に居ることになっていた。非番のときは、いわゆる燃料係を担当した。その任務は、燃料槽と燃料出力の管理、燃料容器の開閉、燃料計画表に消費燃料の記録であった。

DZRの設立時に、すべての乗組員に統一した制服が導入された。金ボタンのついた青い制服とマリンブルーの制帽が用意された。熱帯地域用に、それぞれ白いスーツと白のカバーの付いた制帽が支給された。靴は黒と決まっていた。夏用と冬用のコートは端を丸く仕上げられていた。夏冬用のコートで身なりは完全に整った。

乗組員の職務と階級が読み取れるように徽章が付けられていた。階級章は、飛行船船長から三等士官までは金色と青の地球に銀色の飛行船がつけられ、4本から1本までの金色の袖章がついていた。乗船技師と機関士は大きな金色の歯車がついており、同様にその階級に応じた袖章がつけられ、あるいは袖章のないものもいた。無線技師は2本の交差した金色の稲妻がつけられ、1本の稲妻は乗船電気技師であることを示していた。スチュワードは職務徽章を何もつけておらず、ほかの乗組員と相違して制服のボタンは銀色であった。

乗組員は皆、安全かつ時刻表通りの飛行船運航を保証するため、極めて誠実な勤務が求められ、また勤務外でも模範的な振る舞い、飛行船業務のポジティブなイメージのために寄与しなければならなかった。

トップページに戻る