LZ127Profile

LZ120:ボーデンゼーおよびLZ121ノルトシュテルン

LZ90_1

1.2 Die Luftschiffbau Zeppelin GmbH: ohne Aufträge, aber mit Visionen von transatlantischen Dimensionen


1.2 ツェッペエリン飛行船製造社:注文はなくとも、大西洋横断の構想を抱いて

終戦当日の11月11日、船体を延長されたL71はマーティン・ディートリヒ司令の指揮により、再度北部に発進してから2週間経過していた。同型のL73はフレームワークが建造中であった。その他すべての予定はキャンセルされたか、あるいはまだ未着手であった。そのため建造用格納庫はガランとしていた。ただLZ114(L72)だけが完成していたが、海軍にはまだ引き渡されていなかった。同船の司令に指名され、後に最も有名なツェッペリン飛行船長になるE.A.レーマン少尉が試験飛行を実施することになっていた。

おそらく、簡単に述べておく必要があるであろう。とういうのも、ツェッペリン飛行船製造社は、(1918年3月に最後の新造飛行船L64[LZ109]を完成させた)シュパンダウ近傍のシュターケンにあった姉妹工場とあわせても、ツェッペリン・コンツェルンの一部でしかなかった。ツェッペリン格納庫建設社、気球充填所、水素・酸素工場といった、いくつかの小企業のほかにツェッペリン福祉事業所は、マイバッハエンジン工場やフリードリッヒスハーフェン歯車有限会社およびドルニエ製作所の一部(フリードリッヒスハーフェン飛行機工場ではない)が、ツェッペリン・コンツェルンに属していた。

ここでツェッペリン飛行船製造社のリーダーとなった人物の名を挙げておこう。
伯爵の甥で、伯爵から後継者と指名されていたマックス・ゲミンゲン男爵、およそ10年にわたって伯爵に仕え、いまやコンツェルンの総支配人となったアルフレート・コルスマン、戦前からDELAG(ドイツ飛行船運航有限会社、世界最初の航空会社)を経営し、戦時中はノルトホルツの飛行船要員養成所の責任者で、その後ボーデンゼーに帰ってきて飛行船製造社の経営陣に加わったフーゴー・エッケナー博士、世界的に有名な主任技術者でツェッペリン飛行船製造社の技術担当役員であるルートヴィヒ・デューア博士である。
そして、その同僚としてはシュタール、ヤライとアルンシュタインを述べるに留めておこう。それから陸海軍の士官や軍用飛行船司令からDELAGの社員になり、なかには世界的に有名になった諸氏、フレミング、ハイネン、イングワルトセン、レーマン、プルス、フォン・シラー、それにヴィッテマンの名も挙げておかねばなるまい。

フリードリッヒスハーフェンの産業は、戦争中に著しく成長した。終戦時には国内のあらゆる地方から、およそ11000人がそこにやってきて、大規模宿泊所に居住したり、周辺から鉄道で働きに来ていた。その頃、注文が滞り、急激に衰退していたのは飛行船製造社だけではなかった。この労働者たちに仕事とパンを与えること、あるいは彼らを帰郷させることが重要な問題となった。
コルスマンは従業員にとって典型的な「資本家」であり、自らの回想にこう書いている。「増大した従業員集団のなかに、終戦時には怪しい連中も増えてきた。(略)前線崩壊の最初の知らせが届いたとき、私はコンツェルン外の労働者に対し、ただちに退去した場合には旅費と報酬を与えることとし、それによって、その土地に馴染みのない者の大部分を止め辞めさせることが出来た。」当然ながら11月、12月にはドイツの至るところで騒乱、集会、デモが起きたが、流血沙汰にはならなかった。
それについて、コルスマン自身が当時の自らの行動を誇らしげに記述していること、-そしてまた、工場勤務兼乗務電気技師フィリップ・レンツが述べていることも読む必要がある。

コルスマンは、エッケナーと同様に1919年春の時点ではまだ、民間の飛行船航行が平和条約締結後も許可されることは確実であると信じていた。彼らは民族間を結びつけ、経済を促進するこの分野で、アメリカとヨーロッパの国々が協力し合えるという希望を抱いていたのである。この点に関しては彼らだけではなかった。飛行機工場は旅客機を製造し、大小の航空会社が設立され、それらの会社は軍用機を入手し、多くの場合少ししか客席のない全く奇妙な旅客機に改造したりしていた。

ツェッペリン飛行船製造有限会社の経営者には、まだ手許にある海軍飛行船(LZ114のこと)を長距離用の旅客飛行船として使用することが不可能であることは明らかであった-それは容易に思いつくことであった。
すでに述べたように、それらは高々度に到達できるように特別に設計されたものであった。それは軽量に造られた「好天用飛行船」であり、その構造強度は荒天の大陸間を航行する旅客用飛行の条件を満たすものではなかった。
戦時中、この方式の飛行船のうち、安全性欠如のために崩壊したものは1隻もなかったが、残念なことにツェッペリン関係者の懸念は現実のものとなった
ツェッペリンを模倣したイギリスのR38は、合衆国が購入してZR-2と命名されたが、1921年8月24日にイギリスで実施された最終試験飛行で、最高速度で急激な操舵を試みて空中分解し、ハンバー川に墜落炎上して39名が犠牲となった。

しかし、それにもかかわらずツェッペリン飛行船による大西洋横断は眼前の目標となっていた。ツェッペリン伯爵は、すでに1914年にクラウド・ドルニエを採用し、アメリカへ飛行させるための大型飛行船を彼に設計させていた。大戦中の1915年2月に、ツェッペリン伯爵はドイツ系アメリカ人ジャーナリスト、フォン・ヴィーゲントに「私はまだ大きな野心を抱いている。私はツェッペリンを、航空路でヨーロッパとアメリカを結ぶ最初の航空機とすることを望んでいる。私はもっと長生きして、私のクルーズ船で大洋を渡ってアメリカに行きたい。」と言っている。そして、それは全く夢のような話ではなかった。
L59は1917年11月に、ブルガリア・カーツーム間を試験飛行し、96時間の飛行で6750キロメートルを飛翔し、ドイツ領東アフリカに到達して戻ってきたのである。
航続時間の記録ではLZ90(陸軍飛行船LZ120)がE.A.レーマンの指揮下、バルト海巡航で101時間を達成している。

それだけにE.A.レーマン本人が、終戦直後にある考えにとりつかれていたことは驚くべきことである。「我々は、我々の飛行船で軍事的な成果を上げたことに満足していた。戦争によってもたらされた技術進展が、戦後のこんにち友好的な世界の交通運輸に貢献するであろうことは自明のことと考えていた。ゲミンゲン男爵と私は1918年12月に、飛行船による初めての大西洋飛行の準備に掛かった際、老ツェッペリン伯爵の遺志を実現しようと努めた。」
そして、新造のLZ114(L72)は、本質的でない改造の後ではあったが、「ニューヨークに向けて、中途着陸なしにガソリンを補給して帰還することになっていた(略)それで、フランス人やイギリス人が間に入らないよう、我々はその計画を秘密にしていた。我々は、夜間イギリス海峡を越えるか、あるいは英国諸島を北に迂回して、我々の到着前日にはじめてアメリカ人に無線電信で、アメリカ入国の許可依頼を申請する予定であった。」

L71の指揮官ディートリヒも全く同じような計画を持っていたことを述べておこう。彼は既に1918年11月30日に、政府に対し激しく支援を求めたが、成果は実らなかった。レーマンの方がずっと粘り強く、徹底して自らの意図を追求したのである。

1919年3月11日に、飛行船製造社の取締役会で次のように決められた。「アメリカ渡航にあたり、乗組員と往復用ガソリンを搭載できるようにするという点に限ってL72を改造する。場合によっては6月中に渡航が実施されるため、準備を迅速に行うこと。」L72の所有権関係を明確にしておくために、海軍当局との交渉が必要になった。当局はさしあたり、「当地での説明を認め、ドイツの飛行船がまもなくアメリカに渡航することの重要性」に、様々な条件付きで同意した。ツェッペリン関係者たちは、この飛行が計画された民間大洋横断航行の宣伝よりも、むしろ「国家的な目的である」と説明していた。「その目的とは、祖国のためのものであり、(中略)同じことを意図していたイギリス人たちに先んじること、それがこの計画の唯一の目的である。」

4月には装備の変更が終了した。乗組員は荷造りを終えて準備万端の状態であった。飛行船に充填するガス供給用のホースも連結され、しかも既に当直の配員も決まっていた。ところが、4月にドイツ政府はアメリカ行きを厳禁し、軍の歩哨所を格納庫の前に設置した。このことに関する徹底的な究明は行われなかった。この飛行は初の大西洋横断をイギリス人のために残しておくために、連合軍側の圧力で(まるで準備が秘密裏に行われていたかのように!)禁じられたのだろうか。それとも、外国でそのような行動を起こせば、その際の心理的な作用がレーマンとその支持者が望んだような「ドイツの威信の復帰」との否定的な反応を引き起こし、ツェッペリン工場の破壊にもつながりかねないとドイツ政府は考えたのだろうか?

このような事情により、L72(LZ114)は長くレーヴェンタールに置かれていた。1919年4月23日、工場の首脳陣は海軍省に書状を書いている。「我々は国家著作権省(?)と同様にL72あるいは他の飛行船を売却できる状態にはありません。というのも、国内で買い手として考えられる機関のなかで今後1、2年のうちに飛行船を取得・維持出来るところは皆無だからです。」
振り返ってみれば単純なことで、要するに彼らは軍需品の買い手を探していたのである。それほどヴェルサイユ条約の影響はまだ顕著に表れていなかったのである。実際に、1918年12月の半ばには一度、L72の任務、艦艇・水上機・飛行船の武装解除の検査をするために、連合国間の委員会が設置されている。

1919年7月2日から13日にかけて、イギリスのR34(1916年のツェッペリンr型の模造船)が、ニューヨークまで往復し、いずれも中途着陸なしで順調に航行した。これがエッケナーやコルスマンたちに、すぐにでも大西洋横断旅客運送を実現しようという動機付けになったことは理解できる。最終的に重要になったのは、ツェッペリン飛行船製造社とその卓越した熟練工チームを維持することであった。たとえ彼らが一時的に他のコンツェルンに組み込まれたにしても、飛行船製造社で可能なかぎりのあらゆる金属製品や厨房器具が製造されていたにしても。製造、組立、そして運航の経験や能力は失われてはならなかったのである。

そうして、エッケナーは大陸間飛行船運航の基礎作りのためにすべてを投じた。このとき既に南米、インド、フィリピン向けの路線も視野に入っていたが、まず差し当たって北大西洋ルートが検討対象になった。連合軍のなかで合衆国が最も早く共同事業の相手とできることが見込まれ、第1回目の連絡が行われた。1918年の11月、12月にフリードリッヒスハーフェンでは既に「アメリカ船」のことが語られていた。差し当たり、LZ119の構想(108000立方メートルの試作船L100)の対応が討議された。1919年1月と3月に首脳は専門家たちと討議したが、このとき既に新規のオリジナルな計画を対象に行われた。当初、容量は10万立方メートルと決められ、そのため記録には「アメリカ船」別名「郵便船」は、しばしば単に「10万立方メートル船」と呼ばれていた。飛行船の大きさから、当然のことながら離着陸施設が並行して具体化されていたので、アメリカとヨーロッパの発着地点、格納庫、回転式格納庫、閘門式格納庫についての詳細が話題となった。アメリカ大陸南部の航路も綿密に審議された・・・。

「アメリカ船」は、まもなくLZ125と名付けられ、記録には着々とその形状が記載されていった。船室を船体中央に配置するか、あるいはLZ120、121、126、127のように操縦室と一緒に前部の船首部胴体下に取り付けるかなどについて特に詳細に検討された。1919年1月にすでに、乗客用ゴンドラの内装と厨房の下準備がなされていたことは奇妙に思われる。その理由は単純であった。仕事が山積していた「計画室」をパウル・ヤライという男が使っている間「技術的な」建造部門には10人の技術者が働いていたのである。

21角形の1919年12月8日付け「10万立方メートル郵便飛行船(第270構想図、LZ125)の暫定的概要計画」の内容は、次のような重要な特徴を持っていた。
長さ236メートル、直径29.9メートル、ガス嚢数17、エンジン2基搭載ゴンドラ2基、単エンジンゴンドラ8基にマイバッハMbⅣaエンジン12基、合計出力2300キロワットで10軸のプロペラを駆動する。
10万8千立方メートルの飛行船LZ127(1928年完成)と比較してみると、長さ・直径とガス嚢数は一致しているが、LZ127は僅か5基のエンジンを5個のゴンドラに収容し、合計出力は2020キロワットであった。
「郵便船」には、わずか4室のシングルキャビンと4室のツインキャビンが設置され、そてに相応して12人掛けの椅子を備えたサロンが設けられることになっていた。それは、郵便および速達貨物を運送するシンプルな「高速性と飛行性能を誇示する宣伝用飛行船」であった。この構想をアメリカの顧客に売り込もうとしていたのである。しかし一方でキャビン部分を長く取り、乗客40~50人用のスペースをとった第2案も用意されていた。
「10万立方メートル飛行船」は半年以内に建造可能なはずであった。これらの案は準備が完了していたのである。ただ、問題となったのは、誰が買い、どの会社が運航するのかということであった。

「アメリカ船」をアメリカに売り込み、さらに正確に言うなら大西洋横断運輸のための合弁会社設立試行の歴史は、ここで説明するにはあまりに複雑で多面的なものであった。そこで、以下のことだけを報告しておこう。1919年はじめに合衆国陸軍に、代理人W.N.ヘンズレイ大佐に代表されるグループが現れた。最初にL72の購入を発表したが、その後コルスマンに対して1919年10月30日に「10万立方メートル船」の入札を申し入れてきた。11月26日にコルスマンとヘンズレイはLZ125の建造契約に調印した。しかし、12月1日には早くも合衆国国防長官N.D.ベーカーがツェッペリンの確信を打ち砕いている。彼は政治的理由により、この契約を取り上げたのである。

アメリカとの取引を狙った更なる試みのなかで特に取り上げておくべきは、コルスマンによる1920年夏の合衆国訪問である。コルスマンとその随員は、陸軍およびグッドイヤー・タイヤ・ゴム社、ヘンリー・フォード、銀行コンソーシアムと航空運輸会社設立の交渉を行った。コルスマンは自身でこの旅行を「無益であった」と言っている。7月2日には「大洋航空機会社」が非常に関心をひく契約内容で設立されたが、意図していた活動の具体化には至らなかった。
後に明らかになるように、1921年5月のロンドン議定書における飛行船製造に関する制限だけでも目的の実現は阻止されていたであろう。それでLZ125の計画は、抽斗に収められたままとなり、レーヴェンタルの格納庫で保留になっていたLZ114は、さらに引き続きそのまま放置されていた・・・。

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