LZ127Profile

LZ120:ボーデンゼーおよびLZ121ノルトシュテルン

LZ120_4

2. LZ 120 BODENSEE entsteht

2. LZ120 「ボーデンゼー」の誕生


2.4 1919年8月:2度の試験飛行を達成

1919年8月20日7時20分は、輸送用飛行船航行とツェッペリンコンツェルンにとって非常に重要な日時となった。LZ120「ボーデンゼー」が処女飛行に離翔したのである。ベルンハルト・ラウ船長が指揮をとった。

ベルンハルト・ラウとはどんな人物だったのか?飛行船関係の書物で人名検索を行っても、おそらく彼を探し出すことは出来ないだろう。それに加え、彼は最初の時期、大勢の中の1人であった。彼は1907年の秋に、(エッケナー博士が最初に飛行してまもなく)ドイツ帝国海軍の一等航海士としてやってきて、その後いわゆる「工場従業員」、正確にはツェッペリン伯爵本人とルートヴィヒ・デューアの運航していた飛行船の前部ゴンドラの乗組員となった。

飛行記録には、彼はすでにハッカー船長と同様に「ラウ船長」として掲載されている。
そしてLZ4の、1908年7月1日のよく知られているスイス飛行と、8月4、5両日の「24時間飛行」がエヒターディンゲンの有名な「幸運な惨事」に終わったときにも乗船している。その後彼は1918年までツェッペリン飛行船の工場試運転に乗船し、その殆どの飛行で指令を務めた。そして、彼はDELAGの飛行船で乗客を乗せた飛行には乗務せず、1920年にはすでにツェッペリンのメンバーから外れていたため、彼はそれほど知られていない。

しかし、彼は新造飛行船の試験飛行に誇りと喜びを持って従事していた。それは喜びそのものであった。飛行記録には31名の「乗務員と搭乗者」が記載されており、そのうち8名については名前が残っている。ガソリンは僅か800キログラムであったが、その代わりに2.7トンのバラスト水を搭載していた。載荷重量は6.4トン、セルは95.5%まで充填され、それで臨界圧力高度は海抜820メートル、ボーデンゼー湖面上420メートルであった。航行時間は2時間14分で、飛行距離は不詳である。

殆ど無風で、新造飛行船は通常のあらゆる試験を安心して実施することが出来た。
最初の半時間は、さまざまなエンジン出力による航行と操舵試験が行われた。それから「方向転換径測定」(今日ではそれを最小回転半径と呼ぶ)が試みられた。
4基のエンジン全力で、方向舵角を最大の20度としたところ、時速104キロを達成し、103秒の航行で直径945メートルの円を描いた。
何回か離着陸テストが行われた。通常運転速度において突然エンジンが停止したあと、静止までの時間と距離が測定された。そして、その計測から技術者が飛行船の空気抵抗を算定した。

トリム特性を調べるために5人(「336キログラム」)を操縦ゴンドラの近くから、通路を70メートル船尾側に移動させると、「ボーデンゼー」の船首が10度上方へ傾いた。
昇降舵の舵角が4度からまた水平に戻された。はっきり距離の判っている鉄道路線距離から飛行船の固有(対空)速度が算定され、暫定的に時速125キロと判定された。
さらに報告書には、エンジンゴンドラの振動は非常に少なく、プロペラ近傍の船体内部でも振動は全然感じられなかったと記されている。
無線用発電機が過熱し、大変なトラブルになり、船尾ゴンドラでは相当な量のオイルが換気用開口から流出した。しかし、すべては概ね順調であった・・・。

2度目の試験飛行は8月21日にラウ船長指揮のもとに行われ、飛行記録によると何の異常も記録されていない。そのときはちょうど3時間航続し、高度1250メートルまで上昇した。あらためてさまざまなエンジン出力のもとで速度が測定された。地上からの観測とピトー管による測定により次のように評価された。
4基のエンジンによる巡航速度(毎分1360回転)では時速119キロメートル、4基のエンジン全速(毎分1460回転)では時速130キロメートル、3基のエンジン全速では毎時112キロメートル、2基のエンジン全速で毎時94キロメートル、船尾エンジン1基の全速では毎時72キロメートルであった(彼らはきっと輝かしい表情をしていたことであろう)。

飛行記録の調査研究で驚くべきことがある。日毎の浮揚ガス水素が「新たな充填」と書きとめられているのである。水素の浮揚ガスは最初充填された8月18日から8月23日まで、1000~1900立方メートルのあいだであった。
最初の不足を斟酌しても、また2度の試験飛行で必要とされるガスの消費を考慮に入れても、毎日5%のガス損失は異常なことではなかったように思われる。

時折、3度目の試験飛行が行われたと述べられることがあるが、それは簡単に否定できる。

新造の「ボーデンゼー」は期待に応え、DELAGの旅客運送飛行を実施するに充分なものであると見なされた。
所有者は当面のあいだ、ツェッペリン飛行船製造社であった。
飛行船を損傷する可能性があるため、窓から物を投げることを厳しく禁じるという文面を客席の窓に設置するようにデューアが指示を出したあと、すべての準備が完了した。

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