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ツェッペリン:世界航空事業の開拓者

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「グラーフ・ツェッペリン」で世界航空事業への展開

事前調査

我々は世界周航の成功に満足していた。
「グラーフ・ツェッペリン」は、飛行船が世界の航空運輸を実現することの出来ることを証明した。
当然、定期運航を開始するための準備が行われていた。
その手始めとして、ジャーナリストを乗船させたロシアへの航行によって、外交上の問題も排除された。マックス・ガイセンヘイナーはそのレポートで次のような文を書いていたのである。
「世界一周飛行のセンセーションは、何もセンセーショナルなことが起きなかったことである。」とこの若い記者は公表した。
その中で彼は、我々の猟銃を武器にしてそれで我々がボルシェヴィキに対する争いを防ぐことが出来ると表明したのである。
この「センセーショナルな記事」は、ロシアの外交業務のメモとして、我々のよそからの職務として扱われた。我々は事の次第を解明し、納得できる結果を得ることが出来た。
我々は世界周航のあと、11月にモスクワに航行して約束を果たし、ロシアで友好的な歓迎を受けた。
モスクワの発着場に着陸した飛行船を、政府高官が訪問した。
その影響が後日まで持続する可能性のあった不興は、それで取り除かれたのである。

同様に、我々はイギリスの飛行船関係者とも良好な親しみを感じていた。
イギリスでは2隻の大型飛行船を建造していた。
それには、飛行船形状に関して卓越したセンスを持つ主任技師パウル・ヤライが参与していた。
その飛行船の完成後、我々は何度かイギリスに招待されて同地に着陸した。
世界を結ぶ航空運輸計画を実現するには、良好な国際協力の環境醸成が不可欠であった。

南米への航行の計画はエッケナー博士が、その実施を長い間検討していたものであった。
彼は20年代の初頭に、ハンブルク・アメリカ・ラインの汽船で、調査のためにブエノスアイレスまで行き、航行ルートの調査を開始していた。いつも彼は飛行船長を出張させていた。彼らはラジオゾンデによって貿易風を調査していた。
1930年には、このルートへの試験飛行が開始された。我々は南部スペインのセヴィリアに繋留柱を設置し、ガスおよび電気、水、燃料の補給設備を備えた拠点を建設しようとしていた。後に定期運航を運用するときに、稀にセヴィリアを使うことがあった。
飛行船は、多くの場合リオ・デ・ジャネイロを出発する時点で売り切れていた。乗客はフリードリッヒスハーフェンまで予約していた。

最初の南米航行は、いわゆる三角航行として実施された。フリードリッヒスハーフェン、セヴィリア、ペルナンブコ、リオ・デ・ジャネイロ、 -それに、場合によってはハバナ、レークハースト- フリードリッヒスハーフェンの航路であった。
我々はセヴィリアを出発すると、貿易風の吹く地域に入りたいと思ったが、探してもそれをつかまえることが出来なかった。逆風に遭い、ペルナンブコのレシフェには、62時間の航行の末、やっと到着することが出来た。
我々は赤道無風帯を、猛烈な熱帯性雷雨と強い驟雨のなかを通って航行しなければならなかった。
赤道の近くで、また明るくなった。当然のこととして、地球の真ん中を通るときに、洋上船舶と同様に、海神「ネプチューン」と、妻「フラウテ」を連れた風の支配者アエオルスに捧げる盛大な赤道祭を実施しなければならなかった。
しかし、形式は洋上汽船のような形ではあったが、手空きの乗組員による赤道祭になった。
乗客の一人にオーデコロンをつけて女性らしく演じて貰い、「シュヴァルツヴァルトの樅の枝」で男性側が洗礼を施したのである。

ペルナンブコのレシフェには、のちにツェッペリン運航会社の技師長になる、当時の主任技師カール・レッシュがガス補給設備を備えた繋留柱を設置した。
その発着場は街の近くにあり、かつて沼沢地帯であったところであった。その近くにはガス施設を設け、同じく乗務員のために食堂付き宿舎も建設された。
当初は、飛行船にガスを充填するのに2日間を要していた。後年、設備が改善されて、それを4時間に短縮することが出来た。
フリードリッヒスハーフェン=レシフェ間の距離は8800キロメートルであった。リオ・デ・ジャネイロまでは、さらに2000キロメートル離れていた。
我々は、およそ24時間で「カンポス・アフォンゾス」発着場を作り上げた。そこには短時間の滞在が可能な臨時の繋留柱が設置された。
1935年以降、リオの南およそ60キロメートルのサンタ・クルズに我々の飛行船空港が建設されたので、これを使用することが可能になった。
これも、上述の主任技師レッシュが建設した、格納庫、移動式繋留柱、ガス施設付きの素晴らしいもので、乗組員の休養のための施設や、乗客用レストランを備えたターミナル建築であった。

レシフェへ帰るために北にコースをとり、海岸線に沿って航行した。
カリブ海のハリケーンのために、エッケナー博士はハバナ訪問を断念した。南部諸州の海岸から遠くないところで、我々は荒天地帯を通過しなければならなかった。
非常に激しい突風が飛行船に当たったが、頑丈な「グラーフ・ツェッペリン」は何とか克服することが出来た。
レークハーストに中間着陸したあとで、我々はまたセヴィリアに向けて航行した。フリードリッヒスハーフェンへの帰航では、ローヌ渓谷でひどい雷雨を突進した。この地域では、飛行船を降雹が襲う地帯を通り抜けた。そこに近づいて来た寒気団のために「グラーフ・ツェッペリン」は急速に沈降した。その瞬間、我々の飛行高度は500メートルから100メートルまで急降下した。
アンテナの下端に取り付けられた重錘は地表に叩きつけられ、引きちぎられた。
そのときエッケナー博士は、エンジンを全開させて文字通り最後の1分でツェッペリンの高度を引き上げることに成功した。
そうして我々はローヌ渓谷を2度もとてもひどい状態で通過した。

毎年、晩秋には冬営地で格納庫に収容してオーバーホールしていたが、そのとき「グラーフ・ツェッペリン」は130回の航行を達成していた。
1931年3月末に飛行船は再び航行準備が整った。
そしてハンガリーとバルカン諸国を訪問した。中近東航行の帰途、アドリア上空から東部アルプスへと進んだ。
アイスランドへの航行のあと、悪天候の待ち受けるグリーンランドへ進出しなければならなかった。

1931年が「極地年」となることが明らかになった。北極領域に関して国際的に総力を挙げて、その探求を実施しなければならないことになった。
既に2年前に、フリチョフ・ナンセンがエッケナーを訪れ、そのために飛行船を提供するように依頼していた。
ナンセンが間もなく亡くなったので、エッケナーが航空機による北極探求のための国際的団体であるアエロアークテックの会長になった。書記長は、かつての陸軍飛行船乗りであったヴァルター・ブルンスであった。エッケナーは、ナンセンの願望を果たすことを承諾した。
「グラーフ・ツェッペリン」は、この探検航行のためにわざわざ艤装を実施した。北部地帯のある領域を対象に、写真による地図作成を行うため、ステレオ写真撮影装置の100メートルの基線を作り込まなければならず、地球表面を撮影するためにフィルムカメラを電気的に制御する方式を作ることが必要であった。
地磁気の偏差を測定するためにダブルコンパスが装備された。
海表面を気象学的に観測するため気象観測気球(ゾンデ)で自記させるためにケーブルを下ろさなければならなかった。
地質学者と地理学者は、北極域上空で岩塊の形成を観測する予定で、ドイツ、スウェーデン、ソビエト連邦、アメリカ合衆国の学者、それに当然のことながら、報道関係者もその航行に参加した。

従って「グラーフ・ツェッペリン」は旅客用飛行船から探検飛行船に変更された。通路もキャビンと同様、観測機材が積み込まれた。
探検参加者は、それぞれ4人ずつのテント生活に分けられた。それぞれのテントには、灯油コッヘルと食器類、トナカイ毛皮の寝袋とウールの毛布が与えられた。
それぞれに極地用衣類と極地用下着もその他の装備と同じように充分に用意された。基本的食料品として「ペミカン(北米インディアンの牛肉保存食)」を極地用食料として携行した。
狩猟用装備と釣り道具で、糧食に新鮮な肉と魚を追加することが出来るようにした。
ナンセン、ニロスタクフェンの経験から移動するための装備として10台の橇が組み込まれていた。
2隻の折りたたみボートも持ち込まれた。それで水路を乗り越えるつもりであった。
極地用装備の全重量は、ほぼ15トンになったがそれは1年間の滞在に事欠かないためであった。
緊急時の注意点や連絡は充分に検討された。だが、幸いにも特別装備などは使用する必要は生じなかった。
1897年のアンドレの不運な自由気球飛行の事故で危惧されたけれどもツェッペリン伯爵の楽観論は立証された。

「人類の極地進出に関する関心は2つあった。1つは確固としたとした陸地かどうか、2つめはおそらく自由に使える水があるかどうかである。多くの人命がその探求の犠牲となった。おそらく技術の成果によって1年のうち探検可能な唯一の月である。北極探検は航空によってもたらされるに違いない・・」

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