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ツェッペリン:世界航空事業の開拓者

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「グラーフ・ツェッペリン」で世界航空事業への展開

南米定期航路

1931年に我々は3度、南米に航行した。
渡航に関する問い合わせはとても多く、我々は翌年実施する予定のヨーロッパにおける短期航行(我々はサーカスと呼んでいた)を何件も見合わせ、南米航行を強力に推進した。

1932年に本格的に実施に移した。雨期の前にペルナンブコに4回航行し、そのあとに5回飛行した。
航行ルートはローヌ渓谷を下って、スペイン東岸に沿ってジブラルタル海峡を抜けるものか、ビスケー上空を出て、スペイン、ポルトガルの海岸を南下し、そこからカナリア諸島を通って、ケープヴェルデ諸島に沿って大西洋を越えるコースをとった。
その先は大抵、フェルナンド・デ・ノローニャ島の対岸を通り、そこから先はペルナンブコまでほんのひとっ飛びであった。みな、概ねうまく行った。
これはまたコンドル・シンジケートと共同で運航しており、同社はドイツ製の飛行機で乗客と郵便物をさらに先に輸送するのであるが、とてもうまくやっていた。
ただ、雨期には運航を休止せざるを得なかった。そこで飛行船を露天の繋留柱に繋いで2日も熱帯雨に曝すことは出来なかったのである。その間は、サーカスをやっていた。

そこで我々は航空事業を拡張させ、最初のまる一年で運航実績を2倍に高めることが出来た
「グラーフ・ツェッペリン」は1931年に10万キロメートル航行したが、1932年には20万キロメートルになった。そして、さらに年々運航実績を伸ばしていった。
1936年に14日間の航行を実施し、運航実績の頂点を築いたが、その年にはリオ・デ・ジャネイロに16往復を行っている。
1934年にはドイツ・ルフトハンザとの共同事業で、また新しい郵便促進事業を開始した。
ツェッペリンはフリードリッヒスハーフェンを22時に出発したが、翌日の午前中にベルリンから郵便物を載せた時速300キロメートル以上の「ハインケルの稲妻」があとを追ってカナリア諸島まで運んだ。
ガンド空港[註:現在のグラン・カナリア国際空港]で飛行機の運んだ郵便物は荷車に積み込まれた。それは広場の風下側に運ばれた。
我々はその上空およそ100メートルの高度で索を下ろした。可能な限り正確に風に向かって進行して荷馬車を追いかけ、カラビナハーケンのついた索で、重量100キログラムまで強化された郵嚢を掴むのである。それを船上に引き上げた。
100キログラムを超過するときは何度も取り込むことになる。

南米では、ペルナンブコのレシフェで、飛行機が我々の到着を待っていた。我々は着陸後、それに郵便物を引き渡した。着陸出来ないときはパラシュートで投下した。
飛行機はその郵便物をリオ・デ・ジャネイロまで届け、そこからJu52[註:ユンカースの有名な3発機]がチリのサンチアゴまで送り届けた。
そこで8から10時間経つとJu52が、またブエノスアイレスへ出発し、郵便物はレシフェに空輸されることになる。この方法で、ベルリンから発信された手紙の返信は7日でサンチアゴから委託されて戻ることが出来る。

また別の方法でも、ルフトハンザと共同で南米向けの航空郵便業務を新たに始めた。
飛行機が郵便物をアフリカ沿岸のバサーストまで運んでくる。
それを、アフリカとブラジルの両岸のあいだ、いつもはフェルナンド・デ・ノローニャの傍に停泊しているカタパルト船「ヴェストファーレン」または「シュヴァーベンラント」へ届けるのである。
郵便飛行機は、汽船からカタパルトで射出されて大西洋を横断するのである。[註:この郵便飛行機には双発のドルニエ「ヴァル」飛行艇、後には4発のブローム&フォス「He139」飛行艇が用いられた]
しかし、その位置に投錨しているカタパルト船は熱帯水域でほとんど航行しないので、船底にはしっかり海藻が蔓延ってしまう。従って毎年一度、船底を清掃するためにドックに寄港しなければならなかった。
そのときツェッペリンが郵便業務を肩代わりしたのである。我々は、およそ4週間にわたって、レシフェとバサーストの間で振り子運航を実施していたのである。

我々はこの航行で、また特別な冒険も体験した。
バサーストに郵便物を届けての帰途、無線により反乱が勃発したことを知った。その航行を指揮していたレーマン船長は、その運航計画の実施を中断した。フリードリッヒスハーフェンに帰航するには、船上の燃料では不足であった。
従って運航中の燃料消費を最低限度に絞って限定し、遥かレシフェまで航行することにした。ブラジル沿岸に近づくと、街の視界外に留まるように勧める無線通信が届いた。我々の着陸地はまだ戦場であった。
従って我々は海岸に沿って航行していた。
2日目も無線通報は、依然として好ましくない状況であった。反乱3日目 -既に航行を始めて4日目であった- 食料の余裕がなくなり始めた。しかし、まだ革命は継続していた。
近くに、ハンブルク・アメリカ・ラインの汽船がいた。
それで我々は食料を提供してくれることが出来るか尋ねた。「エスパーナ」の船長は、ハンブルクからリオへのたっぶり3週間かかる航海の途中で、ブラジルでの反乱の話はまだ聞いていないと答えた。
彼は、我々が着陸地点からわずか60キロメートルしか離れていないのに、食料を与えてくれるように頼んだことは冗談であると思ったが、親切にも聞いてくれることになった。彼は我々に無線で操船指示を出すように依頼してきた。
汽船は舵を取り風に対して正確に高速で航行し、我々はゆっくりと100メートルまで高度を下げて後ろからその上を航行した。先端に空の瓶を固定した長いロープを下ろした。これが水面を叩くと方向が決まり、それでその船がこちらに操船することが出来た。
デッキでは準備作業が始まっていた。ジャガイモを入れた袋と適当な量の保存食品がネットに詰め込まれ、ロープに固定された。我々はそれを引き上げた。それに対する感謝として新しい新聞を下ろしてあげた。
「これで、我々は反乱を持ちこたえられる」という我々の無線通信を知った地上で支援活動に当たっている協力者は驚いたことであった。

4日目にも依然として事態は解決されていなかった。我々はその件の状態をペルナンブコの代理店の経営者、ジーバート氏からの情報で知った。ジーバート氏は、その無線通信が我々に届かないうちに、従業員を度重なる反乱の前線に社員を出動させていた。
そして我々は辛抱強く同じように周回しながら行ったり来たり往復していた。タマンダレの小さな集落の真ん中の海岸に、ココヤシの林があり、我々は2時間東に航行し、そこで旋回してタマンダレで当直の引き継ぎを実施した。
我々は、この地域の住民の習慣がだんだん判ってきた。3軒目の小屋の主婦は右に大きな洗濯物を持ち、新しい服を身につけていた。初めは海岸で犬が飛行船を見て吠えて歓迎していた。だがそんな興奮もしばらくすると馴れてしまった。
5日目の夕方、ジーバート氏は事態が明らかになるに従って、我々が着陸を検討することができると思うと伝えてきた。反乱はブラジルではよくある事態であった。
無数の手榴弾が使い果たされ -150万もの弾薬と言われた- しかし建屋の外での損傷は少なかった。
118時間40分にわたる長時間飛行のあと、我々は幸運にもギキアの飛行船発着場に着陸することが出来た。
そうしているうちにリオ市政府の情勢も回復し、我々は3度目で、最後となるアフリカへの往復航行を出来ることになった。

このルフトハンザとの郵便業務の共同作業は、どうしてもやらねばならぬ我々の使命であった。
ここでは、飛行船と飛行機は決して競争相手ではなく、まだ大洋を横断飛行することの出来なかった飛行機にさらに大きな業務を追加することの出来る機会であったのである。ウロンスキ、フライヘル・フォン・ガブレンツ両重役は、我々と彼らの飛行業務の補完を見出したのである。
その当時、ブラジルでは法律により、外国の航空機がブラジル国内で営業運航することが禁じられていたのでDELAGとルフトハンザは自分たちでブラジルに航空運輸会社「コンドル・シンジケート」を設立した。
サンタ・クルズには、ブラジル政府の支援により美しく大きな飛行船空港が生まれた。
1935年から -私はその年の3月に「グラーフ・ツェッペリン」の指令になった- 我々の航行拠点をリオに移した。

その年、南米航路における航行距離は35万キロメートルを達成した。乗客572名、4000キログラム以上の郵便物および5トンを越える航空貨物を輸送した。しかも、そのとき飛行機を1機、ペルナンブコに輸送している。これで運航実績カーブはさらに向上した。
このときは三角航路の運航の構想は実現されなかったが、我々は1933年にそれを再度試行した。
レシフェから海岸線に沿って北航し、アマゾン河口に乗り入れた。多彩な鸚鵡やカーディナルのように赤い朱鷺鸛が雲のように原始林から群れて飛び上がるのを思い出す。
そこからガイアナ上空をヴェネズエラ国境まで航行し、トリニダードの東へ良き、「風の諸島」に沿ってハイチまで行った。さらにそこから合衆国海軍が繋留柱の使用を認めてくれたマイアミまで飛行した。
そこでわずか10時間の休息ののち「グラーフ・ツェッペリン」はさらに北上した。マイアミでは熱帯の高温が続いており -フロリダ半島から大陸へと進んだ- 我々は激しい雷雨に耐えて進んだ。気温は相当に低下した。
10月24日の夕刻、我々はオハイオ州アクロン上空に来たが、そこの外気は氷点を下回っていた。路面は凍結して危険な状態で、最初は着陸することが出来ないほどであった。飛行船の船上に寒気対策の設備はなかった。地上は凍っていたが皆一生懸命頑張った。早朝に着陸することが出来、ホテルでとりあえず熱い湯につかって暖まることが出来た。
「グラーフ・ツェッペリン」はシカゴで開催されていた万国博覧会を短時間表敬訪問したあと、セヴィリア上空を航行して母港に帰港した。

エッケナー博士が計画したツェッペリン運航のブエノスアイレスまでの延長を、我々は「グラーフ」で実行することは出来なかった。しかし、1934年に、飛行船の耐候性を上回るパンペロが頻発する天候状況でその航行を試みた。ついに、この長距離運航の可能な高速飛行船が運航を開始することになった。1935年に建造された「ヒンデンブルク」にはそれが出来るはずで、我々はそれを喜んだ。
また当時発展していた航空運輸には、旧式の「グラーフ・ツェッペリン」単独では対応するすることが出来なくなっていた。すでに7年間も絶え間なく運航するために維持運営に時間を掛けていた。
その運航の正確さは、ブラジルでドイツの模範的サンプルとなっていた。常に同じ時刻にリオ湾の砂糖パンと呼ばれる特異な岩山に飛んでくることは周知のことであった。
現地の大きな新聞に次のような広告が掲載された。

「ツェッペリンのように正確に!
君の時計は、それほど正確であろうか?
それなら、私のところへ持ってくればいい
時計職人、アントニオ・ペレイラ」

また、この飛行船に採用したマイバッハ・エンジンは決して故障しなかったので南米の広告に用いられた。
我々の多くの航行によってツェッペリンはすべての地域で普遍的な概念となっていた。
だが、初めての長距離航行はセンセーションを巻き起こし、新聞では太字印刷見出し付きで特別扱いされ、運航スケジュールによる定期運航業務は特記されていた。飛行船の運航は出発も到着も掲載されていた。
これらに対する関心は、他の国でも増大しており、ツェッペリン運航の成果はさらに影響を及ぼしていた。

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