LZ127Profile

ヨハン・シュッテ教授(1873-1940)

Schuette

ヨハン・シュッテは船舶工学の権威で、ダンチヒ大学の教授であった。

エヒターディンゲンで発生した「LZ4」の衝撃的な事故について検討を重ねた結果をツェッペリン伯爵に進言した。しかし、伯爵は全国から寄せられた膨大な義捐金で会社を設立するなど多忙な時期だったのであろう。シュッテ教授の提案には殆ど関心を示さなかったという。

そこでシュッテ教授は自分で硬式飛行船を試作しようと思った。マンハイムで農機具製造業を営んでいたカール・ランツ博士と、その義弟のアウグスト・レヒリングを出資者に迎え1909年4月22日にシュッテ・ランツ飛行船製造社を設立した。その年の11月にマンハイム・ライナウに新設した飛行船工場で「SL1」の建造を開始した。「SL1」はシュッテ・ランツ飛行船第1号を意味している。

船舶工学に基づいたその飛行船は内部にガス嚢を収容し、フレームは木構造であった。飛行船「SL1」は1911年から1913年までにおよそ85回の飛行を行い、多くの技術的成果をもたらした。第一次世界大戦の直前に「SL2」が完成し、陸軍に採用された。大戦の終わる1918年までにシュッテ・ランツは引き続き18隻の飛行船を建造している。

シュッテ教授の設計した飛行船の特徴の一つは、当時のツェッペリンのような両端を丸めた円筒形ではなく見事な流線型である。
第2の特徴は十字尾翼を採用したことである。これで安定性と操縦性が改善された。
第3の特徴は、竜骨とも呼ばれるキールを主船体内部に設けたことである。これにより空気抵抗が軽減された。

あまり知られていないことであるが「SL1」には船体構造方式に大圏構造を採用したことは非常に興味がある。通常、船舶でも航空機でも比較的広い間隔でリングを配置し、その間を細い縦通材で結びこれに外板や外皮を張る。大圏構造というのは右巻きと左巻きに斜材をまわし、これにリングと縦通材の機能を持たせる方式である。これにより船体構造に必要な剛性を持たせながら重量軽減が図れる。

これを知ってイギリスの航空技術者バーネス・ワリス博士はヴィッカースの中型爆撃機ウェリントンを大圏構造で設計している。ワリス博士はイギリスの大型硬式飛行船「R100」や第2次大戦ではルール工業地帯のダムを破壊した特殊爆弾「ダムバスター」の開発者としても知られている。

シュッテ・ランツの飛行船が実用化したあと、ツェッペリンの飛行船も(「LZ27」から)十字尾翼を採用し、その後船体も流線型に変更している。

シュッテ・ランツが当初、船体に木構造を採用していたのはツェッペリンの特許を回避するためでもあったが、海軍飛行船隊司令シュトラッサーはこれを嫌っていたようである。

特記しておきたいのは敗戦直後、ツェッペリンが生き残りをかけて最初の飛行船「LZ1」より短い「LZ120:ボーデンゼー」を完成させた頃、シュッテ・ランツでは大西洋を横断する大型旅客用飛行船「アトランティーク」を設計し、外観図だけでなくラウンジやダイニング、乗客用キャビンなど船内の予想図を発表していたことである。

硬式飛行船を発明したツェッペリン伯爵の業績は偉大であり、伯爵の亡き後事業を引き継ぎ発展させたエッケナー博士の功績も大きいが、技術面ではシュッテ教授の貢献も忘れてはならないと思っている。

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