LZ127Profile

ペーター・シュトラッサー(Peter Strasser:1876-1918)

PeterStrasser

ドイツ海軍が飛行船を採用したのは陸軍に較べてずっと遅かった。陸軍最初の飛行船「ZⅠ(LZ3)」が1906年に初飛行しているのに、海軍最初の飛行船「L1(LZ14)」は1912年に建造されている。

2隻目の「L2(LZ18)」が建造間もなく1913年の秋に爆発炎上したあと、しばらく飛行船活動を中断していたが、殉職したフェリックス・ピエツカー(Felix Pietzker:1879-1913)の後任としてドイツ海軍の飛行船担当になったのがシュトラッサーである。

シュトラッサーが飛行船担当になって最初の飛行船「L3(LZ24)」は1914年の春に就役している。その年の夏に第一次世界大戦が勃発し、ドイツ海軍はノルトホルンとアールホルンに大規模な飛行船基地を建設し、シュトラッサーはドイツ海軍飛行船隊の指揮官となった。

このシュトラッサー中佐を技術・運用の両面で指導したのがフーゴー・エッケナー博士である。エッケナー博士とシュトラッサー中佐は、述べ50隻以上の飛行船と千人を超える搭乗員の訓練の責任を任されたのである。こうして、二人のもとに大型飛行船の膨大な飛行実績データと、運用上の知識や経験が蓄積された。

シュトラッサー中佐とエッケナー博士は、これらの実績に基づいて次々と建造される飛行船に改良を加えていった。迎撃戦闘機の上昇限度が向上することに対応したハイトクライマーと呼ばれる一連の高々度飛行船や、それらに装備される酸素供給配管やマスクもその例である。しかし、非常に大きい船体のため速度は時速100kmに及ばず、搭乗員は頭痛・吐き気・幻覚・妄想などの航空病と闘いながら夜間爆撃行に従事したが、急激な性能改善を遂げた飛行機の敵ではなかった。

燐を用いた焼夷弾が使われるようになると陸軍は飛行船の使用を諦めてしまったが、シュトラッサーの率いる海軍飛行船隊はロンドン爆撃など終戦まで戦った。

硬式飛行船生みの親、ツェッペリン伯爵の亡くなった翌年の1918年8月5日、シュトラッサー中佐は最後の爆撃行の指揮を取った。休戦の僅か3ヶ月前のことであった。ノルトホルン、アールホルンなどから飛び立った5隻の飛行船(一説によると3隻ともいわれている)は編隊を組んでイギリス上空へと向かった。

シュトラッサーは「L70(LZ112)」に乗船していた。全長211.5m、最大速度時速131.5km、上昇限度7000m、240馬力のマイバッハエンジンを7基装備し載荷重量43.5トンの新鋭船であった。海上に墜落した「L70」の搭乗員は全員戦死と認定された。シュトラッサー中佐、42歳であった。

エッケナー博士は、その著書のなかで「特別に優秀で有能な海軍飛行船隊司令である」と述べており、技術面・運用面で様々な意見交換を行っていた模様である。

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