LZ127Profile

大型旅客用飛行船の黄金時代(14)

Knut1

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第5章: クヌート・エッケナーとその父

1934年の夏、私はエッケナー博士の子息クヌート・エッケナーと知り合う機会があった。およそ私と同年代であった彼は Diplomingenieur (工学士)であり、私は母国の工学修士に相当すると思った。

クヌートは「LZ129」の建造と組み立てに関する主要な情報源であった。我々には多くの共通の興味の対象があり、2人とも飛行船について非常に熱意を持っていることも共通していることがすぐ判った。

「グラーフ・ツェッペリン」の飛行の合間にクヌートはコンスタンツ湖周辺のよいポイントや、ドイツ人が日曜の午後に「コーヒーとケーキ」を楽しんだり、この地域の名産であるスモークハムで旨いビールを飲むお気に入りの場所などに案内してくれた。昼食には旨いババリアのビールとライ麦パン、それにソーセージをよく食べた。2人でそれを楽しんだものである。

私が2度目にフリードリッヒスハーフェンに滞在したとき、私とクヌートはさらに親しくなっていた。1935年から1938年までの間にクヌートの責任は相当重くなっていた。1938年には、何処で製造された物にせよ全ての外注製品に、彼は飛行船の製造・組立・搭載の全てと同じように直接責任を担っていた。クヌートの承認を受けないものは機械工場の製品だけであった。

1938年に私はクヌートから最高の賛辞を受けた。彼がツェッペリン飛行船製造社の経営者である彼の父から何も聞かずに褒めてくれる筈はなかった。

クヌートは飛行船の建造と搭載を担当しており、彼と同じ事務所にいる助手は出かけるところであった。クヌートは、私にグッドイヤーを離れて彼と同じ事務所で、彼の助手として飛行船の建造を監督してはどうかと提案した。私は彼を非常に尊敬しているが、この立場は受け入れられなかった。

フリードリッヒスハーフェンで著名な人物は彼の父親であった。私がフリードリッヒスハーフェンで過ごした5年間の大部分の間、特にその末期はエッケナー博士と非常に親しくなっていた。彼は飛行船を建造する会社であるツェッペリン飛行船製造のトップであり、1935年に運航会社ツェッペリン・レーデライが設立されると両社の社長になった。運航会社のレーマン船長、製造会社のデューア博士はともにエッケナー博士に直接報告していた。「ヒンデンブルク」の事故でレーマン船長が亡くなるとイッゼル氏が運航会社のマネージング・ディレクターを引き継いだ。

エッケナー博士は1934年にリオに行く「グラーフ・ツェッペリン」に我々とともに乗船したが「ヒンデンブルク」が飛行を始めた1935/6年には乗船せず、優しく見守りながら任せているようになった。彼は私がドイツの人達の習慣を共にしたり、山登りを楽しんだりしていたことを良く知っていた。私がドイツの政治的立場を尊重することも判ってくれた。彼はナチを好まなかったし、ヒットラー礼賛にも賛成していなかった。

彼は私がドイツに行くまえに、ナチによってその立場が悪くなっていた。1932年の夏にフリードリッヒスハーフェンの町の長老が訪ねてきて、大きな建造用格納庫をヒットラーのために政治的集会に使わせてくれと申し入れてきた。彼はそれを断った。海を越えた輸送や商用のために常時そこで飛行船の維持・整備を行っていたのである。このことが彼をナチとのトラブルに巻き込み、そして1936年6月のプロパガンダ飛行に出発する際の離陸で再燃したのである。

着陸フィールドを横切って飛行船工場へゆく道路で工場に向かう途中、何度もエッケナー博士が彼の愛車マイバッハで通るのに出会い工場まで乗せてくれた。

すぐに彼の事務所には行かず、2人でそこに座って私がハイキングやスキーに行く山の話をした。彼はオーストリアやスイスの山のことを非常に良く知っており、いつも次にはどの山に登ればいいか勧めてくれた。このような山の話が、ときには1時間も2時間にもなることがあり、それに気がついて慌てて仕事に行くこともあった。

1936年の夏、私は既にご老体と親しくなっていたが、多分彼は話を聞いて私がどんな反応を示すか判っていたに違いない。それはエッケナー博士自身に関することであった。最初の試験飛行のときはツェッペリン飛行船製造の従業員以外には私しか乗っていなかったが、その「ヒンデンブルク」に試験飛行で乗っていたときの彼の最後の言葉で知った。そこには来賓も航空省の代表も、合衆国海軍も報道陣も居なかった。

一ヶ月後「ヒンデンブルク」最初の南米飛行で、エッケナー博士が信頼して秘密を打ち明ける相手に私を選んで話してくれた内容は次のようなことであった。ナチの宣伝相ゲッベルスが、彼は「存在しない人物」でドイツの新聞には彼の名前を出すことも写真を載せることも禁じたことを知ったと言うのである。

レークハーストでは1936年10月9日に「ヒンデンブルク」が『百万長者の飛行』と呼ばれる飛行で多くのアメリカの実業家や、政府要人や合衆国海軍の高級将校を含む101人の乗客を乗せて飛んでいた。着陸は夕暮れ近く、その時間に船は地上にありエッケナー博士と私は彼を訪ねる来客のために非常に多忙な午後であった。私がレークハーストでドイツ人の作業の手伝いに加勢していたときのことである。「ヒンデンブルク」が着陸したとき私は博士の近くにいたが、博士は船を離れるときに私を見た。誰もが、特に記者やカメラマンがエッケナー博士と話をしたそうに見えた。そのとき彼はほかの皆に背を向けて、あたかも非常に重要な話があるように私の方に急いで来た。彼は私にとてもつまらない話を始めたので彼の意図が判った。彼はとても疲れていて、全ての活動から離れて小さな平和と安静を必要としていたのである。

我々は多くの群衆から離れてフィールドを横切り、米海軍飛行船隊司令の家に続く道を歩いた。そのときの司令はチャールズ E.ローゼンダール中佐であった。

博士は声が聞こえないところまで来るとすぐ話を止め、我々2人はフィールドをローゼンダール邸まで静かにゆっくりと歩き、私は彼をそこに残して去った。

偉大な公の大立者にかかる過酷な圧力から逃れようとする彼の手段であった。

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第6章: 「グラーフ・ツェッペリン」の南米飛行(1)へ

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