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大型旅客用飛行船の黄金時代(1)

SA

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


序: ナチスとエッケナー博士(1)

時は1936年3月26日、場所は南ドイツのフリードリッヒスハーフェンのことである。遡ること3年あまり、アドルフ・ヒットラーはドイツの首相であり、総統であった。

彼と彼の信奉者たちは、ドイツ国民を諦めと堕落の底から20年近く経験したことのない、誇りと繁栄をもたらしていた。世界大戦で打ちひしがれた恥と屈辱は追いやられ、悪名高いベルサイユ条約で犯罪と決めつけられた彼等の戦いを正当化する風潮が現れていた。

フリードリッヒ大王やブルッヒャー、モルトケのドイツ軍を誇り高く感情的に認める空気が当たり前のように駆けめぐっていた。ドイツ人は、その罪をあがなう生贄を求めていた。ヒットラーは人々に、ユダヤ人や、暴利をむさぼる商人や、社会民主主義者や、コンピエーニュ休戦を画策した11月の犯罪に裏切られたと演説した。

彼の将来計画は、その著書「わが闘争」で述べているように、国内のこれらの敵を抹殺することであり、1933年半端までにブヒェンバルト、ダッハウ、マウトハウゼンの強制収容所に収容した。そこでの実状は1945年まで世間に知らされることはなかった。

新政府は必要に応じて恐怖と脅迫による立法を実施した。ヒットラーとナチスが如何に無法であったかは1934年6月30日の「長いナイフの夜」で暴かれた。この事件では数百人の人々が恐ろしいゲシュタポによって殺害されている。

しかし、殆どのドイツ人は消極的で、このような事件に無関心であった。そして全ての人に仕事があてがわれた。多くの人は制服を着てパレードに出たり、武装集団を結成したり、ベルサイユ条約に異を唱えたりすることが出来たし、また そうした。かつて皇帝のもとで誇りと強さを喜んだ感覚を取り戻していた。

しかしヒットラーは、ただドイツ人を喜ばすためにドイツの軍備を拡大したのではなかった。彼は1919年に敵に没収された領土を取り戻すことを長期計画に組み込んでいた。結局、彼の共産主義に対する猛烈な憎しみは行動目標をロシアに向けた。

最終目標は世界征服であった。

1935年3月1日に、ベルサイユ条約で禁止されていた空軍が秘密裏に創設されたことがナチの空軍大臣ヘルマン・ゲーリングによって公表された。3月16日にヒットラーは常設の軍備を宣言し、ベルサイユ条約で認められた10万人のドイツ国防軍を5倍にまで拡大する計画を発表した。それから1年も経たないうちに最初の侵略が開始された。1936年3月7日、ヒットラーはドイツの軍団をライン川西岸の非武装地帯に送り込んで占領したのである。将軍達は吃驚したに違いない。

総参謀本部はフランスがイギリスの後押しによってアーヘン・トリール・ザールブリュッケンの大部隊を出動させるだろうと判断した。しかし総統は戦争に疲れたフランスと、イギリスの政治家のナチに対する準備状況を正当に評価していた。イギリスの支援がなければフランス政府は何もすることが出来ずその結果、第二次世界大戦が始まる前にそれを阻止する機会を失ってしまったのである。

ドイツ国民は過剰に喜んだ。ヒットラーは勝利者で、虚勢と威嚇で次々と成功をおさめ、彼自身だけでなく多くの将校も彼を軍事面の天才と思うようになっていた。彼の無血の勝利が実証され、ヒットラーは3月29日に国民投票を行うと宣言した。国民はライン地方の占領を認めるかどうかを投票するのである。ヒットラー内閣の宣伝相である金切り声の魔王のようなヨゼフ・ゲッベルスはドイツ国民が「賛成」に投票し総統の方針を支持するように全力を傾注した。

宣伝相の最も華やかで印象的な宣伝手段の一つが、ボーデン湖畔フリードリッヒスハーフェンにあり世界中によく知られたツェッペリン飛行船製造社のツェッペリン飛行船であった。ゲッベルスはこれをドイツ帝国の偉大な象徴にしようと思った。

ドイツ人のツェッペリンに対する熱い思いは第一次大戦よりずっと以前に遡る。創始者のフェルディナンド・アウグスト・アドルフ・ツェッペリン伯爵は、アドルフ・ヒットラーが政界に出る前、長い間その地域で正統な英雄であった。

イギリスやアメリカでは模倣者が居たものの、多くが懐疑主義的で自国での支持が殆ど得られなかったのに対し、ドイツ人は殆ど信仰のようにドイツの卓越した科学技術、それにドイツ精神と文化の証拠のような上空に浮かぶ途方もなく大きな船「コロッサル」の出現を何度も熱烈に期待していた。

ドイツの国民的劣等感を埋め合わせることに関してツェッペリンに対抗できるものはなかった。1900年に浮揚したツェッペリン最初の船「LZ1」は長さ128m、直径11.7mで当時としては巨大なものであった。「LZ1」と、その後続船は遅く、搭載量も僅かで伯爵は「狂気の発明家」とあざけられていた。

逆説的であるが、その初期の災害によって伯爵は国内に知られるようになる。1908年8月に伯爵は第4の船「LZ4」で24時間連続飛行を試みて、ラインからマインツに沿った往路と、フリードリッヒスハーフェンに戻る帰路で歓喜する群衆がドイツの街道を埋め尽くしているのを見た。しかし、24時間連続飛行は達成出来なかった。シュトゥットガルト近郊のエヒターディンゲンで強行着陸しようとしたときにエンジントラブルを生じたのである。「LZ4」は突風に飛ばされ地面に叩きつけられて炎上してしまった。ドイツの人々の心に70歳の伯爵に開発を続けて貰おうという特別な国民的熱意が沸き起こり、フリードリッヒスハーフェンに醵金が寄せられたのである。その総額は6百万マルクを超えたと言われている。

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