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大型旅客用飛行船の黄金時代(7)

BODENSEE1

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第2章: 大西洋横断旅客飛行船の夢(1)

フリードリッヒスハーフェンにある滞在先のツェッペリン社は、硬式飛行船が初めて作られたところで今までに建造されて飛揚した161隻のうち、119隻がここで建造された。従って、フリードリッヒスハーフェンは飛行船のメッカであり、エッケナー博士の率いるツェッペリン飛行船製造社は飛行船にかかわるすべての知識の源であった。

フリードリッヒスハーフェンで建造された飛行船の殆どは、第一次大戦中のドイツ陸海軍向けに建造されたがツェッペリン伯爵が1900年に「LZ1」を飛翔させる前から大陸間を空路で結ぶ夢は描かれていた。1910年代のはじめ、ツェッペリン社の旅客輸送用のための子会社、DELAGは乗客を飛行船に乗せて飛んでいた。この初期のツェッペリンには大洋横断能力はなかった。

船体中央部に20人か24人用の外気から遮られた乗客用キャビンで、暖かい日には解放できる大きな窓があり、快適な籐椅子とテーブルがあり、梁と柱は象嵌で化粧され後部に化粧室と配膳室があった。DELAGはドイツ国内の都市間飛行だけでなく遊覧飛行も行い、愛国的なドイツ国民のなかには1人50ドル相当額を払って大都市郊外の格納庫の近くを2時間飛行する者もいた。初期の旅客用飛行船には就航後2~3週間で壊れるものもあったが、後期のものは相当な人数の乗客を乗せることが出来た。

まだ、基本的にはPRのための運航であったが、ドイツ軍にも軍用として購入しようとする機運が現れていた。ツェッペリン第4の飛行船「LZ4」が24時間飛行を試行中に焼失した1908年のエヒターディンゲンの悲劇により、飛行船開発を止めてはならぬという大衆の「ツェッペリン熱」が沸き上がった。

戦時中の興奮状態で飛行船設計が飛躍的に進展した。ツェッペリン飛行船を技術的にリードしたのはドイツ海軍であった。ドイツ高海艦隊の必要に応じて、効率的に敵艦艇の偵察や襲撃を行うために、カール・アルンシュタイン博士のような傑出した技術者を採用し、大幅に搭載容量を増加したさらに大きくより流線型にした飛行船を要求したのである。

1917年には北海向けに改良された 2,418,700立方フィートの「L59」が、東アフリカでなお戦闘中のドイツ軍部隊のために15トンの貨物を搭載してブルガリアを出発した。同船はカーツームから呼び戻されて4200マイルを25時間かけて基地に戻っている。

第一次大戦終了時点には「グラーフ・ツェッペリン」よりやや大きい 3813,500立方フィートで、マイバッハの高々度用エンジンを10基装備し、計画有効載荷重量92トンの「L100」も建造されていた。第一次大戦の休戦が調印されたあと、ツェッペリン飛行船製造は戦争中に実現した技術的進展のすべてを大洋横断用大型飛行船に反映させようとしていた。

数種類の設計が行われ、同社は戦時中の「L100」を「LZ125」に再生させようと真剣に検討した。

長さ774フィート直径98フィートで、16の気嚢に 3,532,000立方フィートの水素を充填し240馬力のマイバッハエンジンを12基装備したこの「アメリカ船」には2種類の設計が用意された。操縦室上のキールに2~3の旅客用キャビンを設けた郵便兼用高速貨物船と、前部にステートルーム付きの大型キャビンを配置しゴンドラの先端に操縦室を設けた旅客船である。

ツェッペリン社は世間一般に、飛行船による旅行に興味を呼び起こす機運を作りたかった。自己資金で「アメリカ船」を建造していることは、政治的にも財政的にも危険きわまりない賭であった。

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第2章: 大西洋横断旅客飛行船の夢(2)へ

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