LZ127Profile

ツェッペリンに捧げた我が生涯

LZ129

Das >>Traumschiff<<: LZ 129 HINDENBURG

「夢の飛行船」LZ129:ヒンデンブルク


我がLZ127:グラーフ・ツェッペリンが、国際的旅客飛行に対して我々が抱いた期待すべてを満たすことが出来なかったことは既に述べた。
第一次世界大戦の敗戦と賠償飛行船LZ126の引き渡しのあと、連合軍側が我々に建造再開を許可した最初の飛行船として、LZ127は長さ237m、直径30m、高さ34m、容積105000立方mの、それは当時世界最大の飛行船となった - そして、それは幸運をもたらす最高傑作の飛行船となった。

DZRが1937年に活動を停止しなければならなくなったとき、LZ127は17200時間にわたる運航で590回の飛行を行い、167万kmを航行し、大西洋を143回、太平洋を1回横断し、13100人の有料乗客を運んでいた。それに劣らず重要なのは、この試作飛行船によって -同時に大西洋横断航空路の先駆的役割を担った飛行船によって- 我々が積んだ経験である。

1930年から1935年までの間に、飛行船による大陸間航行の支持者がますます増え、DELAGによるアメリカ、イギリス、オランダ、スペイン、スウェーデンなどが世界規模の飛行船サービスを計画したので、より大型で積載能力があり、高性能と快適さを備えた飛行船が必要であることが明らかとなった。
DELAGと飛行船製造社は、そのために容量20万立方mの次の飛行船 -それはLZ127のほぼ倍の大きさのものになる- を造らなければならないことで合意した。これが大きな騒ぎとなったのは言うまでもない。

そんな大きさの飛行船を誰が造れるのか、そんなものは操作不可能だ、一体誰がそれを操縦するのか・・・乗組員の中でさえ、そのような声が上がった。
私は正反対の考えを持っていた。
戦前、我々には2万立方mの飛行船しかなかった。
今日のように、その5倍の大きさの飛行船ですばらしい世界飛行を安全に行うことが出来たり、巨大な飛行船のスタート時と着陸時の操作が定常業務になったりすると、当時誰が想像することが出来ただろう。

私はここで、ほんの細かい、稀にしか言及されることのない、新造飛行船LZ129の着陸時の操船を根本的に改善させた技術上の改良について指摘しておきたい。
LZ127およびそれまでの飛行船は、操縦ゴンドラと船尾エンジンゴンドラに、飛行船が幾分速い速度で地面に降りたときのために衝撃に対する緩衝器が設けられていた。
この緩衝器は滑らせることが出来ず、我々は鉛直に沈下させなければならなかった。新しいLZ129では操縦ゴンドラの下と、垂直安定板のキール下、それに船尾部の奥まった処に大きな着陸用車輪が設けられていた(新型飛行船は4基のエンジンしか搭載せず、船尾ゴンドラはない)。
この着陸用車輪は半分覆われた構造で、前部は部分的に収納出来、方向転換が可能で、バネがつけられていた。強い衝撃も受け止めることができた。
繋留員は、以前のようにゴンドラをグリップで握る必要はなく、着陸の際にさらにもう少し移動することが出来た。接地すると車輪は進行方向へ向きを変え、飛行船は慣性で走行して停止することが出来た。

もちろん、それはすばらしいことであった。ゴンドラと後部のフロアは殆ど損なわれなかった。これにより、我々は飛行機のようにその姿勢のまま、直接降下して車輪で着陸できるようになった。
我々は繋留員を、しばしば左舷と右舷の索を、側面をしっかり保持するためだけに使うことがあった。
このように、この小さな変更は、大型飛行船の着陸性能の改善に寄与することになったのである。
荒天での飛行に耐えるために、そして大西洋上の飛行時間を半日分短縮するために DELAG、つまりDZRは巡航速度をLZ127の毎時115kmに対し毎時135kmを必要とした。
そのためには、LZ127のほぼ倍の5千馬力を装備せねばならなかったが、それにより燃料消費量が50%増大することになった。
その飛行船は50人の乗客用設備を設け、安全のために可燃性のガソリンに代えて燃料にディーゼルオイルを用い、浮揚ガスとして不燃性のヘリウムを使用することになった。
そのため、飛行船製造社ではガソリンエンジンを装備した建造番号LZ128の水素飛行船が計画されていたが、設計は中止された。

次の飛行船LZ129はヘリウム船として建造されることになった。
とても高いヘリウムを全面的に浮揚ガスとして使用しないで済むように「二重ガス嚢」が作られることになった。
通常のガス嚢の中に、小さな水素を満たしたガス嚢を吊るし、それを全体的に不燃性のヘリウムで包むのである。
この二重ガス嚢の開発にはストローベル社外取締役(ガス嚢製造社)と私のほか、飛行船指揮者の中でそのような技術的事項について唯一強い関心を抱いていたレーマン船長が携わった。
合衆国政府がヘリウムの輸出を禁止したため、新造飛行船は水素のみを充填することが決定された。

フリードリッヒスハーフェンの工場敷地には、第一次世界大戦前に建造された、LZ127の建造・運航用格納庫の傍らに、1929/30年に更に大型の新飛行船建造用格納庫が建設されていた。
それに加えて、1931年にはフリードリッヒスハーフェン街外れのレーヴェンタールに、より大型の飛行船運航用格納庫が建設されていた。
そこでは後に破壊されてしまった一つの格納庫で、戦時中からすでに海軍飛行船が組み立てられていた。

1934年に、合計で連続出力3600馬力を発揮する4基のディーゼルエンジンを備えた20万立方mの飛行船LZ129の建造が始まった(巡航速度:時速125km、最高速度:時速137km)。
50名の乗客用設備は、最初の飛行年である1936年が終わった後、72名用に改造された。
DZRは、同時にLZ129の姉妹船であるLZ130も発注し、その建造はLZ129の試験飛行の直後に開始されることになった。
第3の旅客用飛行船LZ131はさらに容量が10%大きく、1939年に起工され、開戦時には幾つかのリングが完成しており、その時までに2百万ライヒスマルクが支払われていた。

容量が2倍になったにもかかわらず、LZ129とLZ130はLZ127より僅かに長くなっただけで(237mから245mへ)、直径ははるかに大きく(30.5mから41.2mへ)なった。
ヒンデンブルクと命名されたLZ129では、船体内部の2層のデッキに収容された空間で、望みうる限りのあらゆる快適さが乗客に与えられていた。すなわち、水と湯の配管されたキャビン、シャワー、長さ15mのダイニング、ブリュートナー・グランドピアノ、バー、ライティングルーム、喫煙サロン、それぞれ15m長さの大きな展望窓(航行中しばしば解放された)に沿った2つのプロムナードデッキ、厨房、部員用と士官用のキャビンとメスルーム、無線室、郵便室、電力センターなどである。
操縦ゴンドラだけは、ずっと船首方向の胴体の下に出ていた。

水上船舶でも滅多にない快適さに乗客は夢中になった。飛行船と飛行機の何という違いだろう!我々のアメリカ代理店の「飛行船では飛ぶのではなく、航海を楽しむのです。」という勧誘文句はまんざら嘘ではなかった。
LZ127とLZ129/130との本質的な相違は、原動機燃料の方式と収容法にあった。LZ127では、行動半径拡大の可能性に非常に関心が持たれていた。

我々の気象学者で物理学者のレンパーツ博士は、ガソリンの代わりに、空気と同じ程度の比重で、さらにガソリン燃料に対して燃料消費(馬力・時間あたりg)を低減できるガス燃料で、大型飛行船のマイバッハエンジンを駆動する提案をした。
それによると、一挙両得の結果が得られる。第1に、同じ重量の燃料でより大きな航続力を獲得することが出来、第2には特に大きな負担になっているバラスト問題が解決できるのである。

消費された燃料ガスが空気と置き換えられるので、その結果 飛行船の総重量は全く変化せず、常態が維持できる。我々が1回の飛行で必要とする10~30トンのガソリンに対して、それと同量のバラスト水を補給するか -航行中の飛行船でどうやってそんなことが出来るだろう- あるいは、それに相当する量の水素浮揚ガスを放出して、飛行船が軽くなりすぎないようにする必要があったであろう。

すべて「燃料ガス」で駆動するLZ127と同じ大きさの飛行船を「燃料ガス」だけで動かすのは不可能である。飛行船の容積が大きくなりすぎるからである。そのため、「グラーフ・ツェッペリン」の建造には妥協策が取られた。およそ10トンのガソリンでは、巡航速度でわずか20時間しか航続時間が確保できなかったが、その代わりに100時間の飛行が可能となる2万~2万5千立方mの燃料ガスを搭載した。
この燃料ガスは飛行船内の特設セルに収納された。それまで、全てのツェッペリン飛行船でガスを収納していた円筒形のセルが分割された。上部3分の2は浮揚ガスの水素(合計8万5千立方m)で、揚力には寄与しない燃料ガスは下部3分の1であった。

燃料ガス嚢(セル)の懸架にはいくつかの問題があった。
ガス嚢は、内部のガスをエンジンに供給したあと、繋留地点で再充填の際に、なめらかで、皺がなく再び膨張するようにしか折りたたまれてはならなかった。
私はストローベル取締とともに、この問題の解決に熱中した。

望ましい性質の燃料ガスの調整法はアウグスブルクのブラウ教授によって提示された。そのため、我々はそれを「ブラウガス」と名付けた。それは、空気より重いプロピレン、ブチレン、エタンと、それに応じて混合されたアセチレン、メタン、水素といったガスによって構成されていた。しかし我々は最初から、そのエンジン駆動のための適性、低温維持性能、そして船体構造部材とセル生地との相性について、可能なかぎりのあらゆる混合気について調査した。
その後、我々は本来の「ブラウガス」のほかに、「オイルガス」、合衆国の「パイロファックス」あるいは純プロパン、水素混合ガスなど、別の混合ガスも幾つも試用した。
こうして既に1930年には、プロパンのみがレシフェで容器に貯蔵され、その後 飛行船への補給の際に、およそ3分の1の水素ガスが添加された
のちに、大抵の燃料ガスが調合済みで大型の容器に入れて用意されたのに対し、我々は、始めはとても暫定的な方式で混合気を生産していた。
つまり、それぞれの成分を個別にセルに入れ、ガスの混合を何度も繰り返しては比重を計測しながら、正しい混合気になるまでそれを揺り混ぜたのである。

LZ127の連続飛行距離を8000kmから1100kmまで延長し、オリエント飛行、世界飛行、北極飛行が可能になったことについて、この新技術に感謝するのみである。

LZ129とLZ130には、既に述べたように、ディーゼルエンジンが装備されなければならず、簡単に点火する燃料ガスは断念されることとなった(それは、いずれにしてもディーゼルエンジンには適用出来なかった)。そして、またすぐに使用される燃料の重量調整の問題が生じた
大西洋横断飛行には、エンジンに20~30トンの原油が必要であった。
飛行船が平衡を保つために、石油をおよそ1kg消費する毎に1立方mのガスを放出しなければならなかったのである。
飛行中は、この軽すぎる飛行船の飛行高度を動的に保つことが出来たであろうが、着陸時でエンジンが停止した状態では浮揚してしまったであろう。
こうして、数トンの石油を消費する毎に、数千立方メートルの水素が操船用バルブから繰り返し排出された。

既に以前から、我々は天から降ってくる水の利用を試みていた。赤道地帯で、雷雨や長雨で飛行船に落ちてくる雨を集める細い雨樋を飛行船に取り付けた。
その水は、パイプを通してバラストタンクあるいはバラストホーゼに送り込まれた。
こうして、雨雲の中を航行することで6~7トンの水が得られ、それと同じ重量の原油を消費したので、例えば半時間という短時間のあいだに、飛行船はバランスを保持することが出来ることもたびたびであった。

言うまでもないが、常に雨から必要な量のバラストを時間的に間に合うように得ることが出来たわけではない。そのため、飛行中にバラスト水を入手できる別の方法が考え出されなければならなかった。

LZ130に関しては、工場でエンジンの排気ガスから水を作る実験が試みられた。
既に戦前、カール・マイバッハによって設計された、それに適応する設備がLZ13:ハンザで試みられた。石油とガソリンは、空気中の酸素とともに燃焼して炭酸ガスと水蒸気になり、後者が凝縮されることが必要であった。さらにプロペラの後流によって冷却された細い配管システムを経由して排気ガスが除去された。凝縮した水は配管で滴下し、集められて個々のタンクに送られ、その中の水位が上がり、その横の石油タンクの中に溜まった。
我々は実際に1kgの石油消費に対して、1kgのバラスト水が得られることを実証した。
そのとき我々はヘリウムによる操業にまだ希望を持ち続けていた。それがあれば航行中の飛行船は、ガスを排出することなくバランスを取ることが出来たからである。
我々はそれを「安価な」水素で行うことを望まなかった。なぜなら中間着陸地点での追加補充の際に多くの時間と費用がかかるからである。
だからと言って、少なくとも7倍はするヘリウムを3万立方メートルも空中に放出する - これは不可能なことであった。そこで水素生産設備の建設が緊急課題となった。
アメリカ海軍はすでに1924年に、ヘリウムを充填した初の大型飛行船シェナンドアのエンジンの後方に、期待を実現する設備を組み込むことに成功していた。

長距離でも常に均衡の取れた飛行船で行う飛行とは、どれほどすばらしいものであっただろうか。ちょうど、我々が燃料ガスでエンジンを駆動していたLZ127のときのように。
さらなる改良の可能性として、浮揚ガスを暖めるという方法があった。そうすれば、スタート時点でまだ速度が不足しているために動的揚力が作用していないあいだに浮揚ガスを膨張させることが出来るからである。検討した結果、例えば電熱器を用いることなどが提案された。

我々は、新造のヒンデンブルクの最初の飛行である工場試運転を1936年3月4日に、87名搭乗(そのうち乗客31名)して行った。
その後3回の試験飛行のあと3月19日に、この飛行船は飛行船製造社からDELAGを引き継いだDZRに引き渡された。

2回のLZ127との連携飛行 -1回目は101人を乗船させて2回目より多くの日数をかけた宣伝飛行であった- のあと、1936年3月31日に46名の乗客とオペルの乗用車、それに競技用飛行機を胴体に載せた最初の南米飛行が、そして1936年5月6日には51名の乗客を乗せて最初の北大西洋横断飛行が行われ、その際に初めて飛行船上でカトリックのミサが行われた。
その同じ年に、さらに北米に9回、南米に6回の飛行が行われ、結局34回の渡洋を行っている。全ての飛行は満席で、北大西洋だけでも1006名を運んでいる。

6月から9月まで、我々の飛行船はそのほかにも特別な飛行を行っている。
ラインラントとニュルンベルク飛行に加え、ライン・マイン空港の竣工記念飛行を行い、クルップのための遊覧飛行や、8月1日にはベルリン・オリンピックへの祝賀飛行を行い盛大な歓迎を受けた。

当然ながら、飛行船も直接間接にナチの宣伝に一役買わなければならなかった。
LZ127は1933年9月2日に、LZ129は1936年9月14日にニュルンベルクのナチ中央党大会に姿を見せ、権力のデモンストレーションにその堂々とした外観を誇示した。1934年、1935年、1936年の中央党大会では、LZ127はちょうど「偶然に」南半球への飛行計画に従って姿を現した。

既に1933年のメーデーに、グラーフ・ツェッペリンはベルリンのテンペルホフへ来るように命じられた。 -既述のように、まだ新造のLZ129が1936年8月1日にベルリンにいないということは当然ながら許されなかった。
第三帝国は、外国からの来客を感嘆させるためにすべてを動員したのである。
もちろん、ドイツ国内のあらゆる飛行は、 -特に再併合前後のザール地方上空および「非武装地帯」進駐後のラインライトにおいては- 住民の国民感情を高まらせることとなった。

ツェッペリン支持者たちは、ヨーゼフ・ゲッベルスとそのドイツ宣伝省の希望をどの程度まで実行すべきかたびたび討議した。エッケナー博士とゲッベルス博士は、互いにあまり好感を持っていなかった。むしろ、互いに徹底した反感を抱いていた。エッケナー博士がナチを最初から拒絶していたからである。

1932年の夏、エッケナー博士は飛行船製造社の巨大な組立用格納庫をヒットラーが演説する大きな政治集会に貸して欲しいというナチの依頼を拒絶した。それまでにも、エッケナー博士はしばしば宣伝飛行の関連の中で、政権への対抗を公然と表明していた。その結果、ゲッベルズ博士は新聞とラジオに対して、その時点以降直ちにエッケナー博士の名前を出さないように指示を出した。
我々の側の大方もこの宣伝飛行を複雑な気持ちで実施していた。一方では、我々はナチの宣伝には同調できず、また同調しようというつもりもなかったが、他方では、新政府は国内経済の発展をもたらし、それは飛行船運航にとっても好機であったからである。

ナチと総統のための選挙宣伝活動を除いて1936年3月29日のいわゆる「ドイツの国会選挙」を機に我々は飛行を行い、貢献することになった。2隻の飛行船が、ともに3日間のドイツ国内飛行を行い、東部国境に沿ってティルシットまで行き、北部ドイツ上空を西部地域まで行かねばならなかった。「ヒットラーに投票を」というスローガンを印刷したチラシが、街々に投下するために数え切れないほど準備された。それに加えて、巨大な拡声器が飛行船に取り付けられ、それからスローガンとマーチが地上に向けて大音響で鳴り響いた。宣伝省から3人の役員が、その設備を操作するために飛行船に「乗客」として乗船することになった。

我々は当時、LZ129とともにフリードリッヒスハーフェン・レーヴェンタールの格納庫に居り、工場格納庫にあったLZ127が最初に離陸した。
しかし、強風によって出発が困難になった。ヒンデンブルクは格納庫に収容されていたため、その船尾は風と逆方向に向いていた。普段ならこの状態では、出発を見合わせるところであった。しかし、我々は危険を冒して、船首の方から飛行船を格納庫から曳き出そうと試みた。
格納庫から出る際には、その上を逆風が吹いて、たとえ船首がかなりひどく揺さぶられたときでも、我々はLZ129を損傷させることなく引き出すことが出来ていた。だが、出発時に災難が起こった。我々はそのとき、通常の方法とは反対に、風に逆らうのではなく、風とともに上昇しなければならなかった。その際に、格納庫から吹き下ろした風が船尾を強く地面に叩きつけ、飛行船の安定鰭をひどく壊した。

当然のことながら、損傷していようとも宣伝のためのこの重要な飛行を実施するように強く迫られた。しかし、ある人が訊ねてきたとき、私は決然と次のように答えた。「いいえ、私は危険を冒したくありません。格納庫で修理してから明日飛行するのが良いと思います」。そして、そのようになった。10時間にわたる修理ののち、我々は出発し、次の日LZ127グラーフ・ツェッペリンに追いついた。

この飛行の目的は喜ばしいものではなかったが、2隻の飛行船が並んで軌跡を描く姿を目にするという体験は、ドイツの多くの人々にとって非常に大きな意義があった。国境沿いにズデーテン地方まで行く飛行を終えたあと、3月28日の午後にミュンヘン上空での宣伝飛行の任務を終え、夜遅くベルリンに行った。
そこではすべてが明るく照明されて、目前に差し迫っている選挙のために物凄い騒ぎになっていた。我々は、選挙の朝に有権者に投票所へ行くよう呼びかけるため、夜を徹してラインラントまで飛行した。夜が明けると、工業地帯が見えてきたが、3人の宣伝担当者は、当然ながらまだキャビンで眠っていた。

我々はボーイを後方の居住区に行かせて彼らを起こさせ、我々がルール地帯上空にいることを告げさせた。彼らは自分たちのマーチとスローガンを放送するために、すばやく装置のもとに来る必要があった。彼らはベッドから起きあがり、まわりを見渡すこともしないで装置のところに駆けつけ、まず、バーデンヴァイラー・マーチを鳴らし、 -その後、拡声器からは大音量ではっきりした声が響き渡った。「この下にいる朝寝坊共! 立ち上がれ。汝らの選挙義務を実行せよ!」。我々が下を見下ろすと - そこはよりによってエッセンの大きな墓地の上空であった。我々は笑いながらその光景を眺めていた。

1937年には、キャビンを改造したあと、最初にフランクフルトまで試験飛行を行い、その際にウーデット少将が自分のスポーツ機を飛行船に着船させる練習を行い、その後3月16日から27日まで最初の南米飛行を行った。
ラインラント飛行のあと、5月3日に その年最初の北米飛行に出発した。我々にとって、これが37回目の大洋横断となった。
西航の飛行では通常およそ60時間、帰航は50時間を要した。それは63回目の飛行となり、この飛行船と共に我々は33万kmもの距離を飛行したのである。3千人以上の乗客が飛行船ヒンデンブルクで輝かしい旅を享受し感激したのである。
我々は確固たる信念を持って、大陸間飛行船運航の新しい一年を迎えたのである。

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