LZ127Profile

LZ129:ヒンデンブルク

Waibel_73
(同書P73)

Barbara Waibel著 LZ 129 HINDENBURG

Ⅳ.「ヒンデンブルク」の航行

1936年3月4日の午後、15時19分にLZ129は、長く待ち望まれていた最初の飛行に出発した。船上には85名が乗船しており、その中にはツェッペリン飛行船製造有限会社の社長であるフーゴー・エッケナー、DZRの飛行船船長全員、47名の乗組員、さらには調理師やスチュワードもいた。フリードリッヒスハーフェンの飛行船工場から、乗客として30名が乗船した。そのほとんどは技術部の技術者たちであり、当然ながら長い間設計主任であったルートヴィヒ・デューアも乗船していた。彼らは皆、新造飛行船の特性に期待を膨らませていた。

出発の前にエッケナーは操縦ゴンドラから工場の従業員に挨拶を行った。彼は工場の従業員がLZ129の建造に協力してくれたことに感謝し、その飛行船の将来の多幸を願った。それから、飛行船は最後の重量精査を行ったあと「飛行船マーチ!」の号令が響き渡り、200人の地上支援員が巨大な船体をロープとウィンチ台車で建造格納庫の東出口に曳いていった。外で船体は風に向かって転回され、鐘の合図とともに浮き上がった。見物人たちはその堂々とした巨体を頌えて歓声をあげた。高度百メートルでエンジンが始動した。この最初の試験飛行の目的は何よりもエンジンの試動にあった。

それに続き、飛行船の操舵能力試験、後進時のエンジンとプロペラの逆転、および制動試験が行われた。飛行船は18時25分に着陸し、最初の試験飛行の結果は大いに満足すべきものであった。

3月末までに更に4回の試験飛行が実施され、そのうちの第1回目は翌朝9時少し前に行われた。そのときは飛行船に88名が乗っていた。最初の試験飛行と、それに続く試験飛行はフーゴー・エッケナー、エルンスト・レーマン、ハンス・フォン・シラーの指揮で行われた。ボーデンゼー上空で旋回飛行した後、ミュンヘンまで脚を伸ばした。飛行船は正午に街の上空で旋回し、それからバート・トルツとアウグスブルクに行ってフリードリッヒスハーフェンに引き返し、そこで8時間の航行を終えた。このときは電気式厨房も使用された。朝食にはブレートヒェンとブイヨンが、昼食にはハンガリー風グラーシュの馬鈴薯添えが用意された。今回もまた主要な乗客は飛行船の建造に携わった技術者たちで、彼らによってさまざまな試験が実施された。

3月6日の午後行われた3回目の飛行は、航空省立ち会いの公式試運転として実施された。ボーデン湖東部上空で行われた3時間半の航行には特に試験担当機関メンバーが参加した。重量が若干大きすぎる飛行船を、バラスト水の投下なしに両輪を使って着陸する試験が行われた際に、操縦ゴンドラが損傷した。航海室の床が修復されたあと小規模な変更が行われ、その飛行船は4度目の航行で当局に承認されて旅客の運航が可能となった。

今回はレーマン船長が飛行船指令となった。彼はさらに3月17/18日に30時間の試験飛行を再度行い、ディーゼルエンジンの連続運転を実施した。その航行は、またバイエルンへ向かった。アルゴイ上空から飛行船をテーゲルンゼー、ヒームゼーなどをかすめてオーストリアの領土に行きザルツブルクを訪問した。夜間、ミュンヘンとアウグスブルク上空を通過した。3月18日の朝、フリードリッヒスハーフェンの工場敷地に着陸し、技術者たちを乗船させてさらに航行を続けた。その日の午後、試験飛行を終えてレーマン船長はその飛行船による旅客輸送の準備が完了したと確信した。

このことを公表するために、3月23日に国内外から多数の新聞雑誌の取材記者がボーデンゼーを巡る周回飛行に招待された。彼等は新しい飛行船の飛行特性を報道し、その快適さを報告することになっていた。「ヒンデンブルク」の船上には102名の乗客と51名の乗組員が乗船していた。LZ127「グラーフ・ツェッペリン」も冬期の解体修理を終えて格納を後にした。それで18年ぶりに2隻のツェッペリン飛行船が空に浮かんでいるのを見ることが出来た。このとき人々は報道機関に、新しい飛行船とそこから見えるボーデン湖の美しい景観だけでなく、この歴史的瞬間の意義を示すことをも狙っていた。最初のツェッペリン飛行船が水上格納庫で建設されたマンツェル湾の上空で2隻の飛行船が出逢った。そこから前後に編隊飛行でコンスタンツに向けて西航し、ライヒェナウ、ホーヘントヴァイルからシャフハウゼンのそばのラインの滝まで航行した。天候も申し合わせたかのようであった。最初は曇っていた空に太陽が現れ、柔らかい緑色のボーデン湖の景観と雪を頂いたスイスアルプスの尾根を照らし始めた。乗客には昼食に野菜付きの子牛のもも肉が出され、その傍でDZRの副責任者である警視総監のクリスチャンセンがスピーチを行った。

この航行は試験飛行も兼ねていた。まずは両飛行船の2つの操縦ゴンドラ間で電話の交信試験が実施され、共同で航路の調整方法が確認された。さらに新たに装備された拡声装置もラジオ中継と同様に試験が行われた。これらの実験は2~3日後に開始される、数日間にわたるドイツ大周航の準備として役立った。LZ129の報道関係者向けの航行は、初めてフリードリッヒスハーフェン・レーヴェンタルに着陸して終了した。そこは既に1930年代初めに新飛行船の運航用格納庫として準備されていた。

ドイツ・ツェッペリン運航社の新しい社旗のもとで、飛行船もプロパガンダの使命を担わなければならなかったということはヘルマン・ゲーリングの基調講演で明らかになった。彼は飛行船が大西洋を横断する目的だけでなく、プレゼンテーションを行う役割も担っているとし、国の参与を強調し述べた。

新飛行船は完成間もなくこうした任務を与えられた。LZ127とともに1936年3月29日に実施される帝国議会選挙のプロパガンダ航行に、NSDAPに「賛成」を投票するために動員された。協定により非武装化されているラインラントをドイツの軍隊によって占領することの正当性を外国に対して宣言しなければならなかった。2隻の飛行船はそのとき、4日間にわたってすべてのドイツ大都市を航行し、プロパガンダのビラを投下する任務を背負わされた。

エッケナーは憤慨した。彼はその任務を「飛行船に対する冒涜」であると見なした。その上、彼はずっと前から予定されていた最初の南米航行への出発を、予定通りに3月31日に行えるかどうかを懸念した。それ以前に、エンジンの最大耐久性能と積載能力を試験するために行うべき12時間連続運転は、この最初の路線航行では実施出来なかった。しかし、ゲッベルスが日程のすでに決まっていた選挙飛行の予定を突然変更する可能性もあった。帝国は最終的に2隻の飛行船の共有者になっていたからである。エッケナーは参加を放棄することで拒否を表明した。

それに対し、指令として責任を持っていたレーマン船長は、時間通りの出発で宣伝相に良い印象を与えようと思った。3月26日、彼は突風にもかかわらず危険を冒して「ヒンデンブルク」を出発させようとした。その瞬間、突発的な事故となった。突風のために尾部垂直安定板が地表に当たり損傷した。エッケナーは、飛行船を軽率に扱い危険に曝したことでレーマンを怒りの言葉で咎めた。彼の「この馬鹿げた航行」と貶した言葉がゲッベルスの耳に入り、ゲッベルスは記者会見でドイツ国内の新聞紙面にエッケナーの名前を出すことを禁じると定めた。

しかし、それでもその航行は実行された。LZ127「グラーフ・ツェッペリン」は事故の時点ですでに出発しておりボーデン湖上空で旋回していたが、単独航で進行しているあいだ「ヒンデンブルク」は再度格納庫に引き込まれ、船尾下部安定板が修繕された。LZ129は3月26日の午後遅く出発し、翌朝 東プロイセンのインスターブルクでLZ127と合流した。

両飛行船には国家宣伝管理部、航空省、運輸省のメンバーそのほか、DZRやその他の党員が乗船しており、航空雑誌や鉤十字のついた小さなパラシュートを投下した。「ヒンデンブルク」の59名の乗客のうち、女性はただ2人であった。DZRの秘書と、ツェッペリン伯爵の姪である78歳のフライン・ゲミンゲンであった。飛行船には拡声器が装備されており、都市の上空を飛行するときドイツ国歌、ホルスト・ヴェッセルのリートと軍歌、それに宣伝スピーチが響き渡り、ラジオで絶え間なくインタビュー、選挙スローガンと実況が直接、船上からドイツ国内の家庭の居間に放送された。

3月28日、両飛行船は17時頃主都の中心街に到達した。夕闇の迫る頃ベルリンに戻るため、そのあとライプチヒの方向へ向かった。両飛行船がスポットライトを浴びながら一時間半にわたって主都上空を旋回したとき、航行は最高潮に達した。選挙当日、両飛行船には投票所が設けられた。投票率は100パーセントに達し、すべての投票用紙に、ヒットラーのラインラント政策の支持に対する「賛成」のチェックが入っていたのは驚くに値しない。

1936年の夏、宣伝省は「ヒンデンブルク」に2度の特別運航を要求した。今回は1936年8月1日にベルリンで挙行されたオリンピック競技会の開会式に参加することになった。国家社会主義者は批判的な外国に対し、ことさら自由で世界に開かれ、平和を愛することを提示するためにこの競技会を利用した。宣伝省は、この目的のために「ヒンデンブルク」を平和の象徴として登場させる印象深いショーを演出した。開会式に先立ってLZ129は、すでに10万の観衆で埋め尽くされたオリンピックスタジアム上空で2時間旋回を続けた。

「ヒンデンブルク」の3回目のプロパガンダ運航は、1936年9月14日にレーマン船長の指揮の下で、ニュルンベルクの全国党大会への航行であった。そこでは「国防の日」として当地のツェッペリン発着場で大々的な軍事パレードが行われた。歩兵・騎兵・砲兵・防空隊から空軍まで、すべての兵科が大会に参加し、陸海空三軍の戦闘力を誇示した。

鉤十字形の編隊を組んだ17機の飛行機に並航された「ヒンデンブルク」は、ヒトラーと最高級将官達が立っていた演壇に近づき、敬意を表すため、半旗をいったん下ろし、また引き上げた。その後上昇し、バンベルク方面に向かった。午後遅くニュルンベルクへ戻り、全国党大会の会場上空で15分旋回し、フリードリッヒスハーフェンの方向へ戻っていった。

これらのプロパガンダ運航のほかに、いろいろな試験飛行と何回かの周遊飛行が行われたが -例を挙げるならば、クルップ社の支配人と有力者が開催したスイスでのチャーター飛行などがある- それらを除けば「ヒンデンブルク」就航の主要な目的は南米および北米への定期運航であった。

南米航路は1931年からLZ127「グラーフ・ツェッペリン」が定期運航に従事し、1935年には長く運航されてきたこの飛行船は、リオデジャネイロまで15回以上の旅客営業運航が計画された。しかしながら、LZ127による定期運航は輸送能力の制約から経済的運航が明らかに無理で、そのため近代的な新飛行船が緊急に必要となった。そういうわけで、もう1隻「ヒンデンブルク」型の飛行船が旧式の「グラーフ・ツェッペリン」に代わるまで、南米航路では「ヒンデンブルク」が差しあたりLZ127を補うことになった。その飛行船は1936年の夏にDZRによりツェッペリン飛行船製造有限会社に発注された。リオでは、フリードリッヒスハーフェン・レーヴェンタルやフランクフルトと同様に、ブラジル政府による財政支援で、新形式飛行船の運航用格納庫としてふさわしい飛行船格納庫を建設することが出来た。

この支援の必要性を示すために、「ヒンデンブルク」は完成直後に、リオへ3月31日の航行が予告されていた。交通機関が運航予定通りに正確に運航されないという風評を避けるため、もはや出発を延期することは出来なかった。選挙飛行のあとに尾部垂直安定板の修理を行う時間はなかった。乗務員もまた、4日間の連続運航にもかかわらず、この航行のあと休憩をとることは認められなかった。

こうして、その飛行船は選挙飛行からの帰航後、すぐにまた航行準備を行った。エンジンの点検を行い、燃料と潤滑油槽は満載され、数千リットルのバラスト水がポンプで給水され、ガスが補充された。スチュワードと調理員は大量の食料品と飲み物を下部通路の貯蔵庫に積み込んだ。6ツェントナーの肉と腸詰め類、2ツェントナーのバター、6ツェントナーの新鮮な野菜、8ツェントナーの馬鈴薯、千個の卵、50ポンドのコーヒー、12ポンドの紅茶、25ポンドの蜂蜜、船上の91人、4日間の航行用に毎日、焼きたての朝食用ブレートヒェンを用意するための160ポンドの小麦粉とある記者はレポートしている。それに、250本の赤/白ワインも多数のミネラルウォーターの壜とともに搭載された(訳者註:ツェントナーはドイツの重量単位で50kg、ポンドは500g)。

出航の前夜、乗客はフリードリッヒスハーフェンで落ち合い、クアガルテンホテルの宿泊室に入った。54名の乗組員は、早くも翌朝4時にはレーヴェンタルの飛行船格納庫に出てこなくてはならなかった。リムジンがクアガルテンホテルに迎えに行き、設定された時刻に格納庫へ連れて行った。舷梯ではヘッドウェイターのハインリヒ・クービスとDZRの担当が乗船券を改札し、ブラジルに入国する旅券を厳密にチェックした。5時14分に出発の操船が行われ、すぐに「ヒンデンブルク」は初の大西洋横断航行に向けて上昇した。航行の指揮をとったのはレーマン船長とフーゴー・エッケナーの二人であった。長い年月、不撓不屈で旅客を対象とする飛行船運航に従事し、ついに夢の飛行船で大西洋横断を実現したエッケナーは、この勝利の瞬間に居なくてはならなかった。

船上ではアメリカ、フランス、アルゼンチン、ブラジル、スイスおよびドイツ人が集い、国際的な交流の場になった。37名の乗客のうち12名は同乗に値する流儀を持ち合わせたジャーナリストで、レポートを通じて飛行船サービスのPRをした。さらに、船上には61キログラムの郵便物と、およそ1200キログラムの貨物が搭載されていたが、その中にはオペルの「オリンピア」キャブリオレも含まれていた。自動車メーカーの50万台の自動車はブラジルの運輸大臣に対するものであった。それらの自動車は船体中央部の大型貨物室に積み込まれ、覆いとロープで固定された。センセーショナルな自動車空輸 -大西洋を空輸された最初の自動車- をツェッペリン飛行船運航社もオペル社も大きな新聞記事で報じた。

航行ルートは、フランス上空を越える通常の直接航空路ではなかった。当時の政治情勢ゆえに仏上空を飛ぶ許可が下りなかった。そのため「ヒンデンブルク」はドーバー海峡を、およそ800キロメートルも迂回しなくてはならなかった。

ビスケー湾でその夜、風力10という猛烈な暴風に遭った。レーマン船長は翌朝、乗客にそれを報告して驚かせた。乗客のほとんどは、深い眠りについていて、その暴風に気付かなかった。翌日、飛行船はすでに大西洋上空を遠く離れていたが、もう常時蒸し暑かった。乗船記者たちは何もすることがなかったので、のんびり海を眺めたり、芝居の話をしたり、読書をしたりしていた。

三回目の夜、飛行船は猛暑の中、赤道を通過し、その翌朝 必ず行わなければならない赤道祭が行われ、乗客全員に水が注がれ風神アイオロスが赤道越えを許可する受洗証明書が授けられた。この日の昼食の献立表は「アイオロスの前菜、赤道風腰肉の切り身、航路風野菜、季節風の馬鈴薯、ツェッペリン=スフレ、貿易風=モカ」であった。

4月3日の朝、飛行船はブラジル海岸に到達した。LZ127は、リオへのコース上でレシフェ発着場で途中着陸する必要があったが、そこで郵便物を投下した。LZ129はLZ127と違ってリオ・デ・ジャネイロまでノンストップで航行することが出来た。4日と4時間40分の航行のあと「ヒンデンブルク」は新しい飛行船格納庫の建設されたリオ郊外のサンタ・クルズに着陸した。

2日後に復航に就いたが、支障は少なくなかった。エンジンの故障により、飛行船、乗組員、乗客は重大な危険に曝された。実は既にリオへ向かう途中で4基のエンジンの一つが故障し、着陸してからでなければ修理出来なかった。このエンジンは復航時に充分動いていたが、全負荷を掛けるわけには行かなかった。飛行船がヴェルデ岬諸島上空で、異常な北東の貿易風に翻弄され、2基目のエンジンも機能しなくなった。それは最初に被った故障と同じであった。連結ボルトの破損であった。明らかに新型エンジンの弱点であり、ほかのエンジンも故障する可能性があった。それを防止するためにエンジンは減速された。そのため飛行船は、ゆっくりと向かい風に立ち向かった。もう一つエンジンが故障すれば前進することが難しくなり、飛行船は沈降しかねない。エッケナーとレーマンは貿易風にのってレシフェに戻り、向きを変えてエンジンを修理するか、アフリカ海岸に沿って航行し不時着することが出来るかなど、あれやこれやと考えてみた。しかし両案ともあまりうまい方法と思えず、第三の可能性を模索した。高度15~1800メートルで、いつものように逆向きの貿易風が吹いていた。それは極めて稀に、低い高度でも生じる風であった。それでこの幸運に彼らは望みをかけた。というのも、そのとき飛行船は積載量が多くとても重かったので最高高度1200メートルまでしか到達出来なかったからである。このように、ツェッペリンをしばしば幸運の女神は護ってくれた。すでに高度1100メートルで待ち焦がれていた向かい風の貿易風が吹き、それが横風、遂には順風となり、残る2基のエンジンはフリードリッヒスハーフェンまで持ちこたえた。4週間後の北米大航行の前に、エンジンはダイムラーの工場で徹底的に試験され、改良されて数時間にわたる試験飛行が実施された。

1936年の航行シーズン中に「ヒンデンブルク」はさらに6回、南米航行を実施し、その中には南米の乗客をオリンピック競技会に間に合うようにベルリンに運ぶなど、運航計画以外の航行も含まれていた。しかし、その本来の使命は北米への飛行船定期運航の開設であった。この航路は航続距離が改良されたとはいえ、当時の旅客用飛行機では信頼を獲得するまでには至っていなかった。エッケナーは「ヒンデンブルク」により商用路線を取得する良い機会だと考えた。まず、1936年には10回の北米航行が予定された。臨時の着陸地としてニューヨーク南方のレークハースト海軍飛行船基地が計画された。そこには、すでにLZ127がその数少ない北米航行で着陸した実績があった。しかし、そこを利用するにはアメリカ政府の認可が必要であった。だが、試験航行のためでなく商用であるという理由で、エッケナーの申請は拒否された。エッケナーは、1936年2月、「ヒンデンブルク」が完成する少し前に、ルーズベルト大統領との公式会見で、10回の航行のための特別許可を何とか入手することができた。

「ヒンデンブルク」の合衆国に向けた旅客を乗せての最初の航行は5月6日の夕刻出発した。この航行でもフーゴー・エッケナーとエルンスト・レーマンが飛行船の指令として指揮をとった。その航行は全席予約の50名の乗客を乗せて行われた。乗客のなかには、オーストラリア人の極地探検家ヒューバート・ウィルキンス卿、アメリカのハースト新聞の記事を担当するジャーナリストのドラモンド=ヘイ女史と、その同僚カール・フォン・ヴィーガント氏など、経験豊富なツェッペリンの常連が居た。そのほかに有名な推理作家やNBCのレポーター、富豪の世界漫遊家であるクララ・アダムス、飛行船の専門家であるハロルド・ディック、それからスコット・ペック、アンドレアス・フィッシャー・フォン・ポツリン等工場主や名士達、カトリックの司祭など、国際色豊かな面々が集まった。

ライプチヒのピアノメーカー、ブリュートナーが飛行船「ヒンデンブルク」のために特別に調整した有名なアルミニューム製グランドピアノが初めて搭載され、同社の社長であるルドルフ・ブリュートナー=ヘスラーも乗客のなかに居た。航行中にドレスデンのピアニスト、フランツ・ワグナー教授がピアノの演奏会を行い、飛行船上からラジオ中継された。それは航空機上で行われた最初のピアノ演奏会であった。

また、5月8日の朝「ヒンデンブルク」のラウンジでは、さらに飛行船および教会の史上初めてとなるイベントが執り行われた。乗船客は空中でのミサに立ち会うための集まった。オブラティ・聖女マリア教団(OMI)のパウル・シュルテ神父により、ローマ教皇の認可を得て荘重にミサが挙行された。ミサの侍者はNBCの役員、マックス・ヨルダンが務めた。シュルテ神父はまた「空飛ぶ神父」として有名で、1927年に交通職員組合(MIVA)という組織を設立し、緊急の場合に迅速な医療援助を保証できるよう、辺鄙な村にいる伝道師が乗物と無線機を使えるようにした。神父は1920年代にパイロット免許を獲得し、飛行機で町から町へと飛び回り、そのアイデアで資金を集めた。ちなみに、最初のMIVA委員長を務めたのは後に連邦首相になるコンラート・アデナウアーであった。

空中を飛ぶ魚や、鯨や氷山を見て乗客は喜び興奮したが、それに較べてその後の航行は何事もなく、乗客たちは飛行船の運航について話し合ったり、食事を楽しんだり、バーで飲んだり、喫煙したり、読書やチェスを指し、葉書を書き、あるいはただ過ぎゆく情景を眺めたりして過ごした。

それだけに、5月9日の朝ニューヨーク上空を航行したときは特に感銘の深いものであった。アメリカ時間で5時過ぎに飛行船は、その百万都市の上空に達した。早朝ではあったが摩天楼はすでに明るく輝いていた。エンパイアステートビルディングは当時、世界で最も高い建造物で、天空に高く聳えていたが、ほとんど飛行船に触れるかに見えた。ハドソン川からは、大小100隻もの船が歓迎のサイレンを鳴らし、有名な自由の女神像が朝日に照らされて輝いていた。ニューヨーク上空で旋回したあとレークハーストの飛行船発着場に向かった。僅か62時間の航行であった。

1936年5月からフランクフルト・アム・マイン近くの新しい飛行機/飛行船用空港が使用された。航空運輸にとって、単に空輸技術的に好都合であるだけでなく、標高が低いので積載重量を増大させることが出来るからでもあった。そして多くの乗務員にとってフランクフルト近郊に転居することを意味した。そのため飛行船発着場の近くに住宅団地が造られ、ツェッペリンハイムと名付けられた。

初めて2隻の飛行船で南北大西洋航行を行ったDZRにとって1936年は総じて成功の年となった。「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」は、合わせてリオに20回航行し、LZ129はそれに加えて北米に10回航行した。南米航行では乗客1006名を輸送し、同様に9252キログラムの郵便物と9198キログラムの貨物も運送した。「ヒンデンブルク」はさらに北大西洋航路でも1002名の乗客を運んだ。「ヒンデンブルク」の南米航行では平均乗客30名であったのに、10回の北米航行はすべて全席予約済みであった。営業成績は前年の10パーセント増しの57パーセントに上がり、それに対して国家からの助成金は43パーセントに減った。

南米航行で「ヒンデンブルク」は平均すると、往航ではおよそ90時間、復航ではおよそ100時間を要し、北米飛行では往航およそ65時間、復航でおよそ51時間を要した。従って南米にはヨーロッパから4日、北米には3日で到達することになり、産業面と商取引で巨大な利益をもたらした。当時、これだけの距離をこれほど短期間でむすび、同時にこれほど快適さと積載能力を備えた交通機関はほかになかった。渡航と郵便および貨物の需要予測は上昇を続け、その翌年には運航のためにさらに飛行船LZ130が必要となった。

北大西洋航行の人気が上昇したので、この航路の一定航行期間に季節料金が導入された。5月から7月までと、9月から10月末までは、ツインキャビンはこれまで通り1000ライヒスマルク、シングルキャビンを1700ライヒスマルクとした。8月と9月の渡航には125ライヒスマルクの季節割増料金が必要となった。その結果ツインキャビンは1125ライヒスマルク、シングルキャビンは1875ライヒスマルクになった。乗客がそれほど多くない南米航路には、この季節割増は適用されなかった。フランクフルトからリオまで、ツインキャビンは片道で普通1500ライヒスマルク、シングルキャビンで2100ライヒスマルクに留め置かれた。この料金改定のさらなる魅力は、無料手荷物の上限が20キログラムから30キログラムに引き上げられたことである。

「ヒンデンブルク」の積載能力が、水素充填が可能になったことによって、もともと計画されていたヘリウムによる運航で算出された値より増加したため、1936年から1937年に掛けての冬期運航休止期間中に、さらに22名分の乗客用区画を備えたBデッキが増設され、合計で72名分の乗客に対応出来ることになった。それにより、経済的展望は再び明確に向上した。

また、船上のサービスも批判的に調査され、可能であれば改善された。「ヒンデンブルク」での航行を支払う余裕のある乗客の多くは、飛行船で一度旅行したことがあるというセンセーションのために予約した。このような乗客は非常に高水準の旅行に慣れており、とりわけ北大西洋の乗客は「とてもわがまま」であると言われていたので、DZRは、これらの乗客を引き寄せ、定期運航を成功させれば、彼らの期待を満たすということをよく判っていた。そのために数次の航行でDZRの担当を乗船させて、サービスの営業活動と並行して乗客の提案、要望、意見を募りはじめた。調査と意見は数ページに及ぶ経過報告として要約され、それは船上サービスについて興味深い洞察をもたらした。アメリカ人の特別な習慣に対する配慮が欠けている、娯楽の可能性が少なすぎる、50人に対して1つのシャワーしか設置されていないなどの不足点が挙がった。献立表はドイツ語と英語で印刷されねばならず、アメリカの乗客にはいつもジョッキに氷水を用意しておかなければならないし、経験の浅い乗客にとっては夜、扱いに慣れるまで格闘を強いる可能性のある小さな羽布団の代わりに、DZRの代表者は、客船やホテルと同様に2、3枚のウールの掛け布団を推奨した。衛生に関しても批判があった。トイレット区画は日に何度も拭き掃除が行われ、いつも濡れている布製のタオルの代わりに紙タオルを準備するべきだとされた。

具体的な批判はバースチュワードに対するものだったようである。彼は「旅客とのつきあいは、より親密にしなくてはならないし、飲むことは極力避け、乗客と必要以上に馴れなれしくなってはいけない」と書かれている。それに対して厨房は大変賞賛された。彼らが客の極めて高い要望に応えたことからすれば当然であろう。女性の乗客にはスチュワデスの特別なサービスが望まれ、これは乗務医師の乗船とともに、就航2年目にあたる1937年の航行シーズンに実現された。乗務医師リューディガー博士が主計係の業務を担当したのでヘッドウェイターの負担が軽くなった。

1936年に実施された10回の北米航行の良好な結果により、両地区の旅客飛行船運航社による独米共同運航の初期計画も再開され、1936年12月にアメリカン・ツェッペリン空輸社(AZT)が設立された。同社では、次々と4隻の飛行船を就航させ、ドイツとアメリカがそれぞれ2隻ずつ運航することになった。この形態で、5日毎にドイツからも合衆国からも飛行船を双方向に出発させることが計画された。アメリカの会社は、特に合衆国における入港の保証と、合衆国内における飛行船空港を建設し、準備を整えなければならず、一方DZRもしくはフリードリッヒスハーフェンのツェッペリン工場は飛行船を供給し、乗組員の養成専門教育を担当することになった。

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