最近、資料を調べていて「ツェッペリンに捧げた我が人生」を見付けた。
著者は「LZ130:グラーフ・ツェッペリン」(後日、LZ127と混同しないように「グラーフ・ツェッペリンⅡ」と呼ばれるようになった)の指令を務めたアルバート・ザムト氏である。
よく知られているように「LZ130」は「LZ129:ヒンデンブルク」の姉妹船で、ヒンデンブルクの事故のあとアメリカ議会はヘリウムの輸出を認めたが、内務長官イッキーズがドイツへの供給を認めなかったため乗客定員を減じてヘリウム船として設計変更したものの結局水素船として完成した。
この書籍が発行されたのは、彼が90歳のときのことである。
この本が世に出ることになったのは、毎年フリードリッヒスハーフェンで行われているフェルディナンド・ツェッペリン伯爵の生誕記念日に行われる式典でフェルディナンド伯爵の孫にあたるヴォルフガング・フォン・ツェッペリン氏と遭い、自宅に招いてお茶の時間に自分の子や孫に聞かせるために録音したテープのことを話したのがきっかけだという。
ツェッペリン氏と、その友人でツェッペリン飛行船研究の権威であるペーター・クラインハインス博士がそのテープを聴いて訂正・加筆を加えて立派な書籍となった。
フーゴー・エッケナー博士の著書で、「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」が初めて大西洋を横断してアメリカに向かう途中、『天候が急変し経験浅い当直昇降舵手に替えるためにザムトを呼んだが、彼が交替する直前に飛行船は大角度のトリムを生じ、朝食準備の出来たテーブルから食器が散乱し、ヤカンが床を走った』という記述がある。
ザムトは「LZ10:シュヴァーベン」が運航されている1912年にツェッペリンに入り、重要なガス嚢の責任者である気球技師(セールメーカー)や昇降舵手などを経験し飛行船長となった。
この本の面白いのは、大飛行だけでなく些細な日常業務や、その時そこに誰が居て何をしたか、何を言ったか非常に具体的に述べられていることである。
エッケナー博士は、飛行船の指揮者であるとか、その会社の経営者であるとかいった存在を越えて大国の国家元首と対等な存在であり(現に3代にわたって合衆国大統領と会見しているし、ワイマール政権の末期には、国民投票でアドルフ・ヒットラーの対抗候補になっていた。)、影響が大きいのでその著書の中で個人名をなるべく表に出さず、役職名などで表現しているが、ザムトの書籍では、国王ウィルヘルム1世、皇太子、航空大臣ヘルマン・ゲーリング、海軍のシュトラッサー中佐、ツェッペリングループと競合していたシュッテ・ランツ社や、そのシュッテ教授、ツェッペリン社内では伯爵、エッケナー博士は勿論、アルフレッド・コルスマン、ゲオルク・ハッカー、フレミング、ヴィッテマン、レーマン等の船長達からチーフスチュワードのハインリヒ・クービスなど実名で挙げられている。
主任技師のルードヴィッヒ・デューア博士は知っていたが一緒に仕事をしていたカール・シュタールの名前はこの本で知った。
その記載内容を権威のペーター・クラインハインス教授が見直し・加筆しているので信頼性は高い。
さらに有難いことに、ザムトのドイツ語は読みやすく、エッケナー博士の著書の3倍程度の速さで読めるのである。これはおそらくテープから起こした原稿なので複雑な構文が少なかったからであろう。
しかも、「LZ130:グラーフ・ツェッペリン」の30回の飛行を詳細にまとめた表など貴重なデータ、それにカラー写真を含む珍しい写真やイラストも多く、初版が1980年なので最近の飛行船の情報も掲載されている。
ザムトの録音を納めたソノシート(何と懐かしい!)はまだ再生していない。
一区切りついたときの楽しみにしている。
そういう事情で、しばらくザムトを重点的に読んで行く所存である。
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