LZ127Profile

ツェッペリンに捧げた我が人生

MeinLeben

Albert Sammt著 "Mein Leben für den Zeppelin"

内容目録


アルバート・ザムトの経歴

アルバート・ザムトは1889年4月24日に、ニーダーシュテッテン(ホーエンロール)で生まれた。
父、エドアルド・ザムトはザールのザールブルク(チューリンゲン)の出身で、母 ルイゼ(旧姓シェーネマン)はムルハルター森で生まれた。
両親は、ニーダーシュテッテンでロープ製造所を営み、輸入食料品商をしていた。
アルバートには8人の兄弟がいた。
6歳の時(1895年)、彼は村の小さな小学校に行った。
彼の教師、フリードリヒ・ノエルは彼の才能をはっきり見極め、それ相応に彼を支援した。
彼はヴァイオリンと絵画の授業も受けた。
学校を卒業すると、彼は両親の仕事である綱造りの修業をし、カルー(ヴィッテンベルク)の高等商業学校に入った。
世界的に名高いナイアガラの滝に渡された綱を車輪で横断したブロンディンに刺激されて、彼はニーダーシュテッテン冬営地の車輪綱渡り地方組合に入り、綱渡りコンテストに参加した。
自分はとりわけバランス感覚に優れていると彼は思った。
それが後に飛行船の昇降舵の操作に役立った。
1909年、軍隊に入ることを志願した。
彼は、バート・メルゲントハイムの歩兵第122連隊に服役した。
ヴッテンブルク王の誕生日に兵士達は劇を演じ、その中で彼は「トナカイ・ハンペ」を楽しんで演じた。
上等兵で兵役を除隊して、再び両親の仕事をした。
1911年に、ニーダーシュテッテンで非常に人に好かれていた母親が49歳で亡くなった。
その後まもなく、1912年1月にアルバート・ザムトは滑車の職長としてベルリンで働いていた兄フリッツの紹介で、当時ツェッペリン飛行船製造のフランクフト・アム・マインへ行ったが、そこには彼の練習船となる「ヴィクトリア・ルイーゼ」があった。
彼はガス嚢担当 兼 方向舵手となった。
飛行船乗りたちがバーデン・オースにいるときはいつも通っていた居酒屋「シュヴァート」のウェイトレス、ハンナ・グラステッターと、彼は1917年にバーデン・バーデンで結婚した。
アルバート・ザムトが転勤になり、2人はベルリン・シュターケンに移った。
そこで1919年に娘インゲボルクが生まれた。
息子ロルフは1924年にバーデン・バーデンで生まれた。
(そこにはグラステッターの両親が住んでいた。)
というのは、アルバート・ザムトはLZ126「ZRⅢ」の乗組員として指揮下におかれたからである。
1924年10月12日、フリードリッヒスハーフェンで、ドイツの飛行船による初めての大西洋横断飛行が挙行された。
アルバート・ザムトは昇降舵手として参加し、その後数ヶ月、合衆国に仲間と共に駐在し、レークハーストでアメリカ海軍の乗組員の教育に当たった。
1927年にフリードリッヒスハーフェンに戻り、LZ127「グラーフ・ツェッペリン」の乗組員になり、最初は昇降舵手として、その後 航海士官として従事した。
その飛行船によって数多くの著名な飛行が実施され、1931年以降は南米との間に定期飛行が実現した。
1936年3月に、アルバート・ザムトは新造飛行船LZ129「ヒンデンブルク」の先任士官になり、その飛行船でフランクフルトに行き、そこで国際空港「ライン・マイン」の2棟の飛行船格納庫の竣工式が挙行された。
1937年5月6日、彼はレークハーストでヒンデンブルクの惨事に遭遇し、生き延びたがひどい怪我を負った。
1937年9月15日、彼は7人目の飛行船指令(船長)に認定され、飛行船の指揮者になった。
1938年11月5日に、LZ130「グラーフ・ツェッペリンⅡ」の指令に任命された。
それはドイツ最後の飛行船であった。
戦時中、アルバート・ザムトはドイツ・ツェッペリン運航会社(DZR)に居り、阻止気球の整備を担当していた。
1945年にドイツ・ツェッペリン運航会社は解散した。
アルバート・ザムトは(当時、56歳であった)、ラーブ・カルヒャーの子会社である石炭組合を新たに作った。
彼はマンハイムとカッセルの間で大工場の経営にあたった。
1965年11月に彼の妻が亡くなった。
1966年(つまり77歳のはじめ)、彼は仕事を辞め、1967年から1982年までボーデン湖畔のユーバーリンゲンに住んだ。
娘がタウヌスのバート・ゾーデンに転居してからほんの数週間後、彼はそこで93歳の誕生日を迎え、6月21日に同地で亡くなった。
1937年6月以降、その町の名誉市民であった故郷の町に彼は埋葬された。
彼の思い出に、1982年7月に「アルバート・ザムト・ツェッペリン博物館」が設立された。

インゲボルク・ザムト=ランチュ

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