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大型旅客用飛行船の黄金時代(17)

fort

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第6章: 「グラーフ・ツェッペリン」の南米飛行(3)

海岸沿いにある場所では古く廃棄された砦が見え、小説「ボージェスト」とフランス外人部隊の武勇伝を思い出した。古い砦のまわりには生命を感じさせるものはなく、ただ内外に続く轍の跡が何処から来たのでもなく、何処へ行くのでもないことを物語っていた。砦は孤立していた。植物も住居もなく、砂漠に囲まれた不気味な静けさだけがそこにあった。

殆どの沿岸地帯はサハラ砂漠に呑み込まれていた。人が居たとしても、この不毛な荒れ地で生活は成り立たなかったが我々は遊牧民を見た。縞の長くゆったりした上衣を着てターバンを巻き馬に乗っており、それぞれがライフルで武装していた。「グラーフ・ツェッペリン」は旨そうな獲物に違いなかった。彼らが我々を撃っているのが判った。最初、一吹きの煙が見え、数秒後にライフルの銃声が聞こえた。決して飛行船に当たる筈はなかったが、確かに彼らが近くにいたことは事実である。

「グラーフ・ツェッペリン」はベルデ岬からフェルナンド・デ・ノロニャに行くあいだで赤道を越えた。赤道通過の際 特別な儀式が行われ、初めて空を飛んで「赤道を越えた」乗客に証明書が交付された。私が一番大事にしているのは最初の赤道通過で貰った証明書である。「グラーフ・ツェッペリン」で16回、「ヒンデンブルク」で4回通過したが、その最初の横断であった。

証明書はエッケナー博士の弟であるアントン・エッケナーが描いたもので、南米とアフリカに挟まれた南大西洋に、アフリカ大陸に鎖でつながれた赤道のもう一方の端は南米の椰子の木につながれ、風の神アイオロスが飛行船を赤道の向こうに吹き飛ばす絵が描かれていた。

その証明書には
『我々、ヒッポテスの息子にして不滅の神の友人であり、風の王国の支配者アイオロス、天候、貿易風、季節風と凪は厳正な審査の結果、地球生まれのハロルド G.ディックに「グラーフ・ツェッペリンに乗船して我々の赤道の通過を許可することを決定した。
1934年6月12日「グラーフ・ツェッペリン」船上にてこれを授与する。』
と書かれている。

私の証明書には非常に著名な多くの人の署名を貰った。
フレミング船長は、その飛行で「グラーフ・ツェッペリン」の指令であった。彼は第一次大戦の飛行船指揮官の1人であった。
フォン・シラー船長は、その飛行で監視士官を務めていた。彼は第一次大戦で5隻の飛行船の監視士官を務めた。
プルス船長もその飛行で監視士官であった。彼は後に「ヒンデンブルク」の指令を務めた。
ザムト船長はもう1人の監視士官で、後日「LZ130:グラーフ・ツェッペリンⅡ」の指令になった。
ヴィッテマン船長もその飛行で監視士官であったが「ヒンデンブルク」の惨事の起きた最後の航行で指令心得で乗船していた。それは建造中も就航後も「LZ130」の指令を務める前提であった。彼も第一次大戦の飛行船指揮官の1人であった。
ハンス・ラドヴィックはヴィッテマン船長が当直のときの航海士であった。その組の当直で私は誰かが病気のためにペルナンブコで下船したときなど手不足のときに昇降舵、水平舵を代わって見ていた。

美しいフェルナンド・デ・ノロニャは南大西洋で赤道通過後 最初の陸標であった。この島は現在合衆国のミサイル追跡基地になっているが1930年代はブラジルの流刑地であった。見事な緑で覆われ、山と言うより丘のようで、そのまわりに岩の尖塔が突きだしていた。孤島なので居住者や生息動物は少なく、滅多に見ることは出来なかった。海岸線の大部分は切り立って絶壁をなしていたが、巨大な鮫の棲む浜もあった。上空からこの巨大な恐ろしい鮫を見ることが出来たが、おそらく25フィートはあろうかと思われた。どんな囚人でもこの島から脱出することが不可能なことは明白であった。

ペルナンブコではバラック兵舎のような建物に宿泊した。ペルナンブコは正真正銘の熱帯であり、赤道から2~3度南にあり標高は海面から僅かしかなく、寝床は蚊帳で覆われていた。そこで好まれる飲み物はキニーネ水で割ったジンであったが、開封していない瓶からでなければ誰もジンを飲まなかった。

「グラーフ・ツェッペリン」は1935年4月25日にリオからの帰途、ペルナンブコに行程表に載っていない寄港をした。飛行船は早朝に到着したが大雨と強風のため、すぐには着陸出来なかった。近接するために飛行中、密度の高い白雲が海の方から寄ってきてそれに出遭った。「グラーフ・ツェッペリン」はこの雲のなかを飛び続けたが、雲は移動して雨もなく大したことはなさそうであった。飛行船が300フィートまで降下して飛行場に近付いたとき、最初の雲と同じような雲に遭遇した。最初の雲が大したこともなかったので今度も大丈夫だと思われた。このとき飛行船はおよそ1100ポンド軽かったのであるが吹き飛ばされてしまった。

事実、その雲はしっかり熱帯の雨を含んでおり、数秒の間に飛行船に7トンもの重量を加えた。投下可能な約5トンのバラストを投下したが飛行船は前進速度を少し増しただけで急に加わった重量に直ちに対処することは出来なかった。

「グラーフ・ツェッペリン」は飛行場の手前約2000フィートで着地してしまい、下部方向舵はすっかりもぎ取られ、下部垂直安定板は飛行船が止まるまで、300フィート地上を曳いてしまった。後部エンジンゴンドラは数回地面にバウンドして、最後は居住区のある主ゴンドラが地面にぶつかって操舵室の床が凹んでしまった。

「グラーフ・ツェッペリン」が止まったとき、現地人の小屋の煙突が飛行船の腹に突き刺さっていた。小屋のなかではストーブに火が入っていた。水素か燃料のブラウガスに引火しなかったことは信じがたいことであった。後部エンジンの操機手がゴンドラから飛び出して小屋に飛び込み、掛けてあったコーヒーポットでストーブの火を消した。

椰子の木も数本、飛行船にぶつけられていた。不時着して間もなく雨は止み、陽が射して「グラーフ・ツェッペリン」は急に軽くなった。整備員達はエンジンゴンドラを何とか不時着前の状態に戻した。再び飛行船が浮揚したとき、下部方向舵が飛行船が不時着した場所から600フィートの地面に横たわっているのが見えた。このとき「グラーフ・ツェッペリン」の幹部は舵を失ったことに気付き、直ちに後部エンジンゴンドラがついているか確認するために後部に人を走らせた。それから何とか着陸した。

下部方向舵は飛行船に括り付けられ燃料を給油したあと、上部方向舵のみ操縦可能な状態でフリードリッヒスハーフェンまで帰投した。

飛行船の損傷は次の通りである。

下部方向舵欠損
下部方向舵上の縦通材破損
下部方向安定板外端重大損傷
後部エンジンゴンドラ支柱屈曲
操縦室床損傷
外皮数ヶ所裂傷
ガソリンタンク1基椰子の木で破損
燃料パイプ3箇所破断
その他、ワイヤ・トラス、型材など構造部材小損傷

「グラーフ・ツェッペリン」はペルナンブコを予定通り発進し、フリードリッヒスハーフェンに火曜日の午前9時に予定通り到着した。30人の乗組員は次のリオへの飛行が予定されている土曜日まで、殆ど昼夜兼行で船上作業を行っていた。

このときの「グラーフ・ツェッペリン」の指令はフォン・シラー船長であった。フォン・シラー船長は1912年にドイツ海軍に入り、戦争のごく初期に飛行船の訓練を受け1914年から1918年までの間に5隻の海軍飛行船で数百時間の飛行時間を重ね、その後「LZ126」と「グラーフ・ツェッペリン」に乗船していた。彼はまだエッケナー博士の教訓を信奉するところまで行っていなかった。

博士は最初DELAGで、後にはドイツ海軍で操船要員の指導・訓練に非常な成功をおさめた。彼はまた、第一次大戦の始まる前から非常に多くの飛行船を上手く操船してきた。エッケナー博士の基本的考え方は、人は満足のいくような状況を想定するのではなく、そうするためにはどうすればよいかを知るべきであるということであった。もし想定が正しくなければ惨事が起こり、飛行船産業が崩壊する。従って行動の前にうまく行く操作を知ることが絶対に必要である。

これが彼の全ての操作/操船の理由でなくてはならなかった。ペルナンブコの事件は、博士の考え方に従っていれば起きなかった。第2の白雲に関する想定が正しくなく、このため「グラーフ・ツェッペリン」は大惨事に巻き込まれたかも知れなかった。

乗組員がフリードリッヒスハーフェンに帰任後、博士は不確定なことをしてはならないと強調した。

彼の事務所の外のホールで、ドアにしっかり閂をかけて精一杯そのことを訓話したのである。

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