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大型旅客用飛行船の黄金時代(4)

LowerFin2

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


序: ナチスとエッケナー博士(4)

レーマン船長は、このような吹き下ろし状態での経験が豊富であった。フライトは午前4時に予定されていたが、彼は風が弱まることを期待して離陸を2時間遅らせた。その間にフリードリッヒスハーフェン近くの格納庫から順調に離陸した「グラーフ・ツェッペリン」はレーヴェンタール飛行場の上空を航行していた。

エッケナー博士の制止にもかかわらず、レーマンはプロパガンダ飛行に遅れないように吹き下ろしの風の中で離陸する危険を冒す決心をした。「ヒンデンブルク」は数百人の地上員によって格納庫から引き出された。全ての準備が完了する前に、予備静止索が外れ、船首はまだ前部牽引車のまわりの地上員が押さえているのに船尾が立ち上がってしまった。前部要員は牽引車を止めることが出来ず、台車は走り去ってしまった。「ヒンデンブルク」は14度の傾斜で上向きになり、下部安定板と方向舵面は地上に尻餅をつき破損してしまった。

一時的に操縦不能となった巨大な飛行船は浮遊気球のように場外に流されていった。幾つかの緊急修理部品が作られ、2時間53分の飛行の後、巨大なツェッペリンは通常に着陸した。

「ヒンデンブルク」が頑強な設計と建造作業で建造されていたので、損傷は局部的で垂直安定板の後下部と下部舵板の下部に限定されていた。損傷した舵板の2mが切り取られて整形され、下部安定板にも同様の改修が行われた。

3月26日の午後遅く「ヒンデンブルク」はフリードリッヒスハーフェンを離陸し「グラーフ・ツェッペリン」とともに3日間のプロパガンダ飛行を行った。

エッケナー博士とツェッペリンの名声にとって事態はさらに深刻であった。破損した船尾で実施された短い飛行から帰任したレーマン船長との打ち合わせで、エッケナー博士は立会人の面前で怒りを含んで「レーマン君、あの風の中で飛行船をどう操作しようとしたのか?君は世界中でも馬鹿馬鹿しいこの飛行を延期する最良の言い訳が出来たはずだ。君が飛行船を危険に曝したのはゲッベルスの機嫌を損ねたくなかったためだけではなかったのか?」とレーマン船長を責めた。

宣伝相のゲッベルスがこの話を聞いたとき、記者会見を開いて次のような怒りの発表を行った。「エッケナー博士は自分で自身を国家から遠ざけてしまった。将来、彼の名が新聞に載ることもなければ彼の写真が使われることはない。」

その上、ナチ政府はエッケナーをツェッペリン社の会長として追い出し、大西洋横断ツェッペリン旅客輸送を行う運航会社の実権は、ナチの意向を より受けやすいレーマン船長に握らせようとした。エッケナーの信念に基づく指導から外れて、ツェッペリン社はナチ帝国の他の機関と同じように危険な方法で生存手段を学ばねばならなくなった。マックス・プルス、ハンス・フォン・シラー、アルバート・ザムトなど若い船長たちは老練な船長のように、それほど伝統的で慎重な操船を行わなかった。

1937年5月6日、レークハーストでプルス船長は「ヒンデンブルク」を急旋回で繋留マストに向かわせた。後の調査で、ドイツ調査委員会の1人であったエッケナー博士は航空相ゲーリングに面会して、急旋回は船体構造後部に過大な力を生じ、船体形状を保持するワイヤ切断の要因になると強硬に主張している。彼は、切断し跳ね返ったワイヤ端が後部気嚢を破り、大量の水素流出をもたらし、水素火災の直前に少なくとも2度目撃されているセントエルモの火がこれに点火したものと結論付けている。

このように1936年3月26日の「ヒンデンブルク」離陸時の誤操作が、その後のエッケナー博士とレーマン船長の反目を生じ、エッケナーをツェッペリン輸送会社の経営から追放したことが後年のレークハーストの惨事につながったとも言える。

61人の乗組員と36人の乗客を乗せた巨大なツェッペリンを、もし偉大な飛行船乗りフーゴー・エッケナー博士が指揮を続けていたなら、間違いなく より細心な操船が行われていたに違いない。

最初のプロパガンダ飛行への離陸の際、ドイツ人の関係者・目撃者のなかに1人のアメリカ人が居た。彼はカメラを持っていて、損傷した垂直安定板の写真を撮った。これが現在残っている唯一のものである。ドイツ人達、特にナチの機関にいた人達は、国の威信を傷つける失敗に意識過敏である。レーヴェンタール飛行場のまわりを走り回った警備員とツェッペリン社の人はカメラを取りあげ、フィルムを破棄した。しかし、アメリカ人はカメラをコートの下に隠していた。

このアメリカ人こそ誰あろう。ハロルド G.ディックというオハイオ州アクロンのグッドイヤー・ツェッペリン社と親会社ツェッペリン飛行船製造の連絡員であった。彼の1934年から1938年までの間、フリードリッヒスハーフェンにおける貴重な経験、「ヒンデンブルク」建造への関わり、「グラーフ・ツェッペリン」の南米飛行、「ヒンデンブルク」の南北アメリカへの飛行、それにエッケナー博士とその子息クヌートとの親しい交際がこの本の内容である。

序: ナチスとエッケナー博士(3)へ

第一章: 私の飛行船事始め(1)へ

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